〝自発的隷従〟について~なぜ人びとはかくも嬉々として隷従を選びとるのか (西谷修氏-Global Studies Laboratoryより転載)

 
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〝自発的隷従〟について(西谷修-Global Studies Laboratoryより)
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2010/05/post_5.html
 
 
 
発的隷従〟について(1)
 
(略)
 
そしてそのことはまた、〝自発的隷従〟を語った
16世紀半ばのフランスの一学徒の作文が、
統治の根源的的側面をみごとに射抜いていたことをも
証しすることになる。
 
 
 〝一学徒〟と書いたのは、『自発的隷従論』は古典学と法学を学ぶ
ド・ラ・ボエシーが16歳か18歳のときに書いたとされる小論だからである。
 
とはいえ、彼は22歳でボルドー高等法院の評定官となるほどの俊英で、少し遅れて同僚となったミシェル・ド・モンテーニュ(1533-1592)と
厚い親交を結ぶ。
その交友の深さはモンテーニュの『エセー』に印象深く語られている。
 
 
 
 『自発的隷従論』は、
人間は自由に生きるよう生まれてついているにもかかわらず、
いつの時代にも圧制がはびこって絶えず、
人々もまた喜んで隷従を受入れているように見えるのはなぜか、
と問うた稀有の考察である。
 
 
つまり、当時広まり始めた「自然権」の考えにもとづきながら、
圧制は支配する側の力によって維持されるのではなく、
むしろ支配される側の自発的な隷従によって支えられ永続する、
と論じたのである。
 
  モンテーニュの姉妹(未亡人)と結婚したド・ラ・ボエシーは、
33歳の若さで赤痢(あるいはペスト)に罹って世を去る。
モンテーニュはその死を悼んで遺稿集を出版するが、
件の小論だけはそこに加えなかった。
 
というのは、フランスが宗教戦争に揺れた当時としては、
誤解を招きかねない内容をもつ、しかし透徹したこの小論を、
彼はすでに名声を得ていた自分の『エセー』の最終巻に
組み込むかたちで、保護しつつ公表しようと考えていたからだ。
 
  けれども、原稿の写しがユグノー(フランスのカルバン派新教徒)一党の手に渡り、彼らは自派のパンフレットに原稿の一部を組み込んで出版し(1574年)、さらにユグノー派の牧師の著作『シャルル9世治下フランス国の覚書』のなかにさらに長い部分が引用され、刊行されてしまった(1576年)。
 
 
そのため、カルバン派の嫌疑をかけられることを嫌ったモンテーニュは、
自分の計画を断念せざるをえなかった。
結局この小論は、宗教戦争下で新教徒の主張を代弁する
政治パンフレットとして流布することになったのである。(つづく)
 
 
 
 
 
〝自発的隷従〟について(2)
 

 まず、ド・ラ・ボエシーの論の概要を紹介しておこう。
 
 彼は、人間は本来、自由に生まれついているはずだと考える。
 
つまり、誰かに隷従するためにうまれたのではないと。
 
獣も折に入れられれば苦しむように、
「われわれが自然の状態において自由であるということは疑いえない」。
 
ところが、古典古代からの歴史も、現代に近いところでも、
人びとも国々も、いたるところでひとりの圧政者の支配を耐え忍んでいる。
 
それはなにゆえにか、と彼は問う。
 
 
 彼に言わせれば、圧政者の力は、
じつはその支配下にある人びとが与えている力にほかならない。
圧政者が人びとを害するのは、
人びとがそれに耐え忍ぶことができるからだ。
 
けれども、かれらが同意しなかったらとしたら、
圧政者も支配を維持することはできない。
 
 
だから、自由であるためには、圧政者から何かを奪いとる必要はない。
ただ、そう欲するだけでよい。自由であろうとすればいいのだ。
にもかかわらず、人びとは隷従にあまんじている。
まるでそれを望んでいるかのように。
 
 
 権力を手にするには3つの様態がある。
一つは選ばれて、
二つめは武力つまり征服によって、
三つめは家系つまり継承によって。
 
方法はさまざまだが、圧政の様態は変わらない。
 
 そして圧政(強権の支配と考えればよいだろう)のもとでは、
 「…信じられないことに、民衆は隷従するやいなや、
自由をあまりにたやすく、しかもはなはだしく忘却してしまうので、
ふたたび目覚めてそれを取り戻すことなどできないようになってしまう。
なにしろ彼らは、あまりに自由に、みずから進んで隷従するので、
見たところ彼らは、自由を失ったのではなく隷従を勝ち取ったのだ、
とさえ見えるほどだ。
たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、
打ち負かされたりして隷従する。
だが、のちに現れる人びとは、悔いもなく隷従するし、
先人たちが強制されることによってなしたことを、進んで行うようになる。
 
そういうわけで、頚木のもとに生まれ、
隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、
もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、
自分が見出したもの以外の善や権利を所有しようなどとは
まったく考えないし、自分が生まれた状態を、
自分にとって自然なものであると考えるのである。」
(山上訳 Ⅱ-229-230、訳は多少簡略化してある)
  

 
 
  習慣が、隷従の毒を飲み続けることで、
それをまったく苦しいと感じなくなる人びとを作る。
 
つまり人間の自然性がいかに自由を求めようとも、
習慣はそれを忘れさせてしまうのだ。
だから、自発的隷従の第一の原因は習慣だということになる。
 
 
 けれども、たとえ自由が世界中から失われたとしても、
みずからそれを想像し、味わいさえする資質が人間にはある。
だから、自由への性向を眠らせる巧みな方策もまた生じる。
 
 
 著者はここで、古代ペルシャのキュロス王の例を出す。
リディア人が叛乱を起こしたとき、これを制圧した王は、
その町に軍を常駐させる代わりに、淫売屋、居酒屋、公共の賭博場
(カジノ?)を建て、住民はこれを大いに利用すべしという布告を出した。
 
これ以降、リディア人に剣を抜く必要はなくなった。
これが「娯楽」というものだそうである。
 
  ローマ帝国の名物に「パンとサーカス」がある。
それは、「民衆にとって隷従の餌、自由の代償
圧政のための道具であった。
 
…こうして民衆は阿呆になり、そんな暇つぶしをよきものと認め、
目の前を通り過ぎるだけの空しい悦びに興じたのであり、
そうして隷従に慣れていったのである。」(Ⅱ-142)
 
(つづく)
 
 
 
 
〝自発的隷従〟について(3)
 

 だが、何といってもこの論の眼目は、
著者が「人びとをより自発的に隷従へと向かわせる方法」について
述べたところにある。
 
ド・ラ・ボエシーは、
圧政者が軍隊や武器で守られていると考えるのは大きな間違い――
それは体裁か、たんなるこけおどし――であって、
圧政者を守るのは、つねにほんの少数の人間たちなのだと言う。
 
 
それはこういうことだ。
 
「…王がみずから圧制者だと宣言したとたん、
国のすべての悪い部分、すべてのくず――小悪人のことではなく、
激しい邪心やめざましい貪欲さに駆られた者たち――が、
獲物の分け前にあずかろうと、
そのまわりに集まってきては彼を支え、
その大圧制者のもとで、自分たちが小圧制者となる」のである。
 
 
 「…まず、5,6人の人間が圧政者の信頼をうる。
つぎに,みずから彼に近づくか、彼に誘われて残虐なふるまいを共謀し、逸楽の場に同伴し、淫行のお膳立てをする。
また、略奪から得られたもののおこぼれにありつく。
この者たちは、主君をうまく調教することによって、
この集団全体の益になるように、
主君が邪悪でなければならないようにした。
 
その邪悪さは、この主君自身の悪行のみならず、
その手下どもの悪行にも起因しているのだ。
彼らは、みずからに服し、その地位を享受する5,6百人を従え、
自分たちと圧政者との関係と同じような関係を、彼らとの間に築いた。
そしてこの5,6百人は、みずからのもとに6千人を登用し…」
 
  つまり、圧政者のすぐ下に、圧政者の悪行のおこぼれに
預かる連中がいる。かれらはまた、圧政者の力を後ろ盾に、
みずからも下にいる者たちに圧政を及ぼし、またその手下が…
ということだ。
 
 
 こうして圧政者は、ただいるだけで何もしなくても
圧制は下々にまで及ぶ。
けれども、圧政者の権威を利用する者たちにも、
いいことばかりがあるわけではない。
 
  「それにしても、卑屈にも圧政者に服従し、
この者の支配と民衆の隷従から利益を得ようとする
これらの連中を目にするにつけ、
しばしばその悪辣さ加減にあきれる一方で、
ときおりその愚かさ加減があわれに思われてくる。
 
というのも、圧政者に近づくことは、自らの自由から遠ざかり、
いわば両手でしっかりと隷従を抱きしめることでなくてなんであろうか。
 耕作人や職人は、隷属はすれども、
言いつけられたことを行えばそれですむ。
 
だが、圧政者のまわりにいるのは、こびへつらい、
気を引こうとする連中である。
彼らは圧政者の言いつけを守るばかりでなく、
その意向をあらかじめくみとらなければならない。
この連中は彼に服従するだけでは十分ではなく、
気に入られなければならない。…」
 
 
  そのうえ、圧政者は財をもつものを好む。
つまりその蛮行の餌食にする。
だから、圧政者の支配と民衆の隷従から利益を得ようとする者たちは、
それによって肥え太り、圧政者の前で、
まるで貪欲な獣の前におのれの身をさらすかのような立場におかれる。
 
 
 こう論を展開して、
人間の自由な性向こそが人びとの間に「友愛」の絆を生み出す、
と考えるこの若い人文主義者は、次のように述べて結びを準備する。
 
 「たしかなのは、圧政者はけっして愛されることも
愛することもしないということである。
友愛とは神聖な名であり、善人同士の間にしか存在しないし、
互いの尊敬によってしか得られない。
それは利益によってではなく、生き方によって維持される。」

 (つづく)
 
 
 
 
〝自発的隷従〟について(4)
 

 支配を権力を論じる際に、多くの論者たちは、
それを支配者による被支配者の一方的な力の関係
(能動/受動)とみて、加害者/被害者という図式をあてはめ、
そこに悪/善の判断を重ねて加害者の悪を告発する、
といった構えをとる。
 
それに対して、ド・ラ・ボエシーの論の面目は、
「圧制は支配する側の暴力によって維持されるよりも、
支配される側の自発的な隷従によって支えられる」
と喝破するところにある。
 
 
放っておけば崩れてしまうはずの権力も、
従属する側がみずから進んで支えて維持するということすらある。
 
だから彼は、支配の不当を難じるよりも、
なぜ人びとはかくも嬉々として隷従を選びとるのか、
と問うのだ。
 
 
 日本でも掃いて捨てるほどいるフーコー教徒たちがこの論を読めば、
そうだよね、フーコーが示したように権力は上から働くだけではない、
むしろ頭のないミクロ権力の網の目が
毛細管のようにはりめぐらされているのだ…、などとしたり顔で言うだろう。
 
けれども、何でもフーコーの枠に落とし込んで分かったつもりになる
そんな浅知恵は、意味のないアカデミズムの論文の数を増やすのには
役立っても、現実の政治を理解することとは何の関係もない。
そういう手合いは早いところ20世紀の訓詁学の穴の中に落ちて
眠ってもらおう。
 
 
 むしろここで想起すべきは、今は歴史の闇の中に消えてしまった
ソヴィエトの論理学者ジノヴィエフである。
レーニンの側近でスターリンに粛清されたジノヴィエフではなく
(彼は本名が別にある)、
ソルジェニツィン騒ぎの余燼のなかで小説『恍惚の高み』が
国外出版されたため、ソ連を追放された
モスクワ大学教授アレクサンドル・ジノヴィエフだ。
 
 1976年、片道切符で降り立ったミュンヘンの空港で、
待ち受けて「自由の空気はどうですか?」と争ってマイクを差し出す
西側ジャーナリストの群れを前に、
奇想天外爆笑放屁の小説の著者は、侮蔑もあらわにこう言い放った。
 
「自由の味だって? 君たちは何もわかっていない。
君たちがありがたがって自慢する〝自由〟なんて
〝向こう側〟では何の意味もないんだよ。
あの体制が圧政だけで成立っていると思ったら大間違いだ。
そんなことで70年ももつわけがない。
 
……あれは、〝自由〟など必要としない90パーセントの人びとによって
支えられているんだ。かれらはそんな面倒なものは欲しがらない。
かれらに〝自由〟を与えるなんて、
魚に傘をさせって言うようなものさ…。」
 
  以後、この追放者は西側ジャーナリストの総スカンを食い、
彼らが熱狂した「ペレストロイカ」のまやかしも徹底的に批判したため
――彼はそれを「カタストロイカ」と呼んだ――
ほとんど狂人扱いされ、無理解のうちに「20世紀のカッサンドラ」を
自認して、戯画を描きながら2006年に流謫の地で世を去った
ジノヴィエフを思い出すにはよい機会だ。
関心のある向きは『余計者の告白 上・下』(河出書房新社、1991)を参
照されたい)。
 
 
 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシーがいま思い起こされるのは、
フランスで宗教戦争の時代に古典的教養で育った利発な若者が、
そのまっすぐな知性で見抜いた圧政存続のからくりが、
いまでもいたるところに存在し
かつ作り直される理不尽な支配体制継続の基本的構造を
照らし出すからである。
 
 
手の込んだ抽象的な理論化ではなく、
ずばりと的確に言い表された表現が、
時代を超えて、人びとの生きる世界のあり方や、
その核心的な関係を、鷲づかみするようにして理解させてくれる。
「自発的隷従」とはそのような表現なのだ。
 
 (つづく)
 
 
 
 
自発的隷従〟について(5)
 

 いま日本でこの表現が想起されるのは、
とりわけ戦後のアメリカとの関係に関してである。
 
 
 日本はアジア太平洋戦争に敗北し、
5年間アメリカの占領統治下に置かれた。
 
その間に、「戦争放棄」を定めた日本国憲法が制定され、
1951年に連合国とサンフランシスコ講和条約を結ぶことで
独立を回復したが、
同時に、アメリカ軍の駐留継続を認めるため二国間安保条約を結ぶ。
 
また、このとき沖縄は日本から切り離され、
アメリカ軍が自由に使用する前線基地の島となる。
 
朝鮮戦争後、冷戦が深刻化するなか、
アメリカは日本に「自由世界」防衛の一端を担わせるため、
再軍備のための憲法改定と教育基本法の改定を求める
(池田・ロバートソン会談)。
 
その要請に応えるため、日本の保守勢力を統合し
「自主憲法制定」を掲げる自由民主党が結成されることになる。
そして1960年、岸内閣によって新安保条約が締結される。
 
 
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 もう一度ド・ラ・ボエシーを引用しよう。
 「人はまず最初に、力によって強制されたり、
打ち負かされたりして隷従する。
 
だが、のちに現れる人びとは、悔いもなく隷従するし、
先人たちが強制されることによってなしたことを、
進んで行うようになる。
 
そういうわけで、頚木のもとに生まれ、
隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、
もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、
自分が見出したもの以外の善や権利を所有しようなどとは
まったく考えないし、
自分が生まれた状態を、自分にとって自然なものであると
考えるのである。」
 
 
  とはいえそれは、
隷従状態に利益と安逸を見出した者たちにとってである。
 
とくに、切り離された沖縄にはそのような安逸はなかった。
 
 新安保条約は期限を10年とし、以後は双方の1年前の予告で
破棄できるということになっているが、
70年に自動更新されて以来、一度もその意義を問われることなく
今日に至っている。
 
  70年の更新は沖縄の施政権返還とセットになっていた。
それ以後、日米安保の存在は、沖縄の米軍基地とともに、
日本にとって動かしえない所与の前提であるかのように、
冷戦が終わってもそのまま存続してきた。
 
  その間、「日米地位協定」に端的に表われているような
アメリカへの従属を、
日本にとってあたかも「自然なもの」であるかのような環境が作られ、
政治においても(国際政治であからさまにアメリカに追従することは
言うに及ばず)、経済においても文化においても、
アメリカに従い、アメリカを範とし、
アメリカのようになる」ことが理想のように求められてきた。
 
とくに、あらゆる分野のエリートたちは、
アメリカで教育を受けたり、職業訓練を受けたりして帰国し、
二言目には「アメリカではこうしている」を
切り札のようにもちだす習性を、恥ずかしげもなくひけらかしてきた。
 
 
 かれらはもはや従属を従属と意識せず、
アメリカに認められることを喜び、
アメリカ的である」ことを誇りさえする。
 
そんな連中に関しては、「従属を勝ち取った」気になり、
「従属を抱き締めている」かのようだと憐れんでやればいい。
 
 
だが、たちが悪いのは、自分たちが祀り上げるアメリカの威光を、
自分たちの恣意的な権力行使の後ろ盾にしたり、
自分たちにとってアメリカとの関係が命綱だからといって、
アメリカを怒らせてはいけない」と、
他の者たちにまで圧力をかけて従属を押し付けようとする手合いである。
 
  ド・ラ・ボエシーは書いていた。
 
「…だが、圧政者のまわりにいるのは、
こびへつらい、気を引こうとする連中である。
彼らは圧政者の言いつけを守るばかりでなく、
その意向をあらかじめくみとらなければならない(「思いやり」?)。
この連中は彼に服従するだけでは十分ではなく、
気に入られなければならない。…」
 
  こういう手合いが、冷戦終結後20年のいまも
旧態依然の日米関係を支えている。
 
それは日本におけるかれら自身の地位が、
この隷従関係を足場に作られており、
当のアメリカ以上に、
かれらこそ対米従属を必要としているからである。
 
 
 もはや細かくは論じないが、
現在の普天間基地移転問題とその扱われ方の背後には、
日米安保条約を不動の前提とした
このような「自発的隷従」の環境がある。
 
  この十数年にわたって日本の社会を激変させた
いわゆる「構造改革」も、
実はこの環境のもとで繰り返された日米構造協議や
それに伴うアメリカの日本政府に対する「年次要望書」に従って
推し進められてきた。
 
その結果が、あちこちで崩壊をさらしている今日の日本の社会である。
  無差別殺人や幼児虐待のような救いがたい悲惨な犯罪は、
家庭道徳やモラルの問題に解消されるものではなく、
日本の社会がもはや人を生きられるように育てる力を
衰弱させてしまっているということの兆しである。
 
それに対して取られる処方箋が、
またまたアメリカの要求するもの
(厳罰化、裁判員制度、自己責任原則、etc.)だとしたら、
事態はますます悪化するばかりだ。
 
  もういい加減、「まがいものの夢」(『現代思想』2009年3月号オバマ特集)から醒める時だろう。
 
「夢(アメリカン・ドリーム)」ではなく「希望」を、
人びとが、とりわけ若者が抱ける社会にしたいものである。
 
 
そう書きながら、若者たちのわずかな「希望」のおき火を撮り続けた
橋口譲二の写真集『17歳-2001-2006』(岩波書店、2008年)を想起する。
 
 
*実はド・ラ・ボエシーの論は「友愛」論をも含んでいて、
現代日本のコンテクストのなかにおくと何やら意味深長なのだが、
話はこれ以上に広げず、
今回はとくに戦後日本の政治的規定性との関連だけにとどめておきたい。あとは『世界』2009年11月号の「政治が回復するとき」と2010年2 月号の「自発的隷従を超えよ――自立的政治への一歩」を参照していただければ幸いである。(了)