なぜ、フィギュアスケートの八百長問題について、熱心にとりあげるか、、というと。

なぜ、フィギュアスケート八百長問題について、熱心に、しつこく取り上げるか、、というと。

このフィギュアスケート八百長と、マスコミの取り上げ方が、
世界の仕組みを知るきっかけになったからなんですね。


露骨な不正が行われているのに、
細かく技の難易度を見ている熱心なフィギュアスケートファンは、
全体からすれば少数で、

多数の人はフィギュアスケートについて詳しくないから、
いくらでも騙すことが出来る、、、


ということで、
マスコミがその八百長の片棒をかつぎ、

繰り返し、不正な採点によって高得点をとった選手(キムヨナ)を絶賛し、
繰り返し、不正な採点で、得点を下げられた選手(浅田真央)を、キムヨナと互角、
もしくは、キムヨナには届かない選手であるかのような”ウソ報道”をしてきました。


フィギュアスケートに対して興味がない人たちは、
浅田真央がどれほど、マスコミから繰り返しネガティブな報道をされ、
キムヨナには及ばないかのような印象操作をされてきた
知らないと思います。


これが、野球やサッカーのような国民的人気の高いスポーツだったならば、
これほどの露骨なウソ報道は行われなかった筈。


フィギュアスケートは、熱心なファンでなければ、
どれほど難しいことをしているのか、
または、大して難しいことをしていないのかは
それ程、詳しくわからないから、

実況解説やマスコミの言うことを鵜呑みにして、
コロリと騙されてしまう。


フィギュアスケートは、野球やサッカー、バスケ、バレーボール、テニスのように
相手を打ち負かして勝利を得るスポーツではないから、合唱コンクール吹奏楽のコンクールの方が近いんですよね。

相手を打ち負かして勝利を得る競技は、見る方も勝ち負けの判定がシンプルなんですが、
合唱コンクールフィギュアスケートの場合は、視聴者の知識と身体能力が必要なんですよね。

合唱コンクールの良さが判るためには、音感が良くなければいけないのと同様に、
フィギュアスケートの良さが判るためには、動体視力も必要なんですよね。

「キムヨナが魅力的だ」と言うならば、人それぞれですが、
「キムヨナの技術は凄い」と言うならば、動体視力が悪いとしか言いようがありません。)



マスコミとグルになることで成り立っている」

というのを知ったという事が、私にとって
世界で起こっている色んな問題に対して、
見る目が変わった大きなキッカケとなりました。


「知っている人が少数だからといって、
露骨な八百長(不正)が行われる」


というのは、何も、フィギュアスケートの問題だけではなく、、


原発の問題もそう。

高レベル放射性廃棄物の焼却問題もそう。

TPPの問題もそう。


その問題の深刻さを知る人が少ないから
マスコミは(特にNHKが深刻)、
大して問題などないような印象操作報道を流したり
または、ほとんど放送しないという方法を使って
国民の多数を騙しています。


フィギュアスケートの露骨な八百長では、人が死ぬことはないけれど、

金融や経済の八百長は、多くの人を貧困におとし入れ、
多くの人を餓死させ、地球規模で自然破壊をしてきました。

このことを知った時、
この問題が、フィギュアスケート八百長問題と
同根であり、解決方法も同じだ、ということに気づきました。



八百長を止めさせる解決方法は、

「少しでも多くの人が実態を知ること」


TPPの問題を追及しているアメリカのジャーナリストが訴えていた解決策が
TPPだけでなく、金融や経済、そしてフィギュアスケート八百長問題さえも
解決することになるだろうと思います。




TPPを、八百長と置き換えれば、

八百長はドラキュラのようなもの。光を当てれば消滅する」


自然環境を破壊し、飢餓と貧困を引き起こしてきた八百長問題を
解決する方法は、とってもシンプルです。

それは、

「少しでも多くの人が、その問題を知ること」

知った人が多くなれば、多くなっただけ、
問題が改善されていくのは間違いないと思います。




『ぶくぶく キムヨナ選手の疑惑』
最初のお話・1~2、「表現力」と「バレエ」・1~4

http://bukubukugame.blog.fc2.com/blog-category-1.html
 

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言いにくいことだけど、団塊世代は、「本当の問題を知ろうとしなかったこと。
学生運動を只のサークル活動のように思い出づくりにしかできなかった事」で
団塊ジュニアが生きる社会を破壊してしまった。


でも団塊世代の親世代も、周囲の空気しか読まないことで、
芥川龍之介が自殺の時に残した言葉「ぼんやりとした不安」の空気を作って
戦争へと突き進んだ。


団塊ジュニアたちが、彼らの親や、その親の世代と同じように、
本当の問題に対して無関心でありつづければ、
団塊ジュニアのそのジュニアが生きる社会は壊滅してしまうでしょう。


もう、団塊世代の時とは比べ物にならない程に、
問題が大きく目に見えるようになり、
調べようと思えば充分に調べられる環境になっているのだから、、、。



石井紘基 日本病の正体

https://youtu.be/3aAOtNDjEyw
伊藤白水に刺殺された石井紘基衆議院議員。彼の卓越した洞察力が日本の暗部を照らし、­自滅する自国への警告を続けてきたが道半ば倒れた。後を担うべき民主党も彼の遺志を継­ぐこともなく、時間ばかりが過ぎていく。娘 石井ターニャは、今も父の求めていたものを成し遂げようと、日々奮闘している。





2015/01/30 世銀・IMFがもたらす「構造調整」という名の「破壊的経済モデル」~新自由主義的圧力で進んでゆく間接的植民地化

――郭洋春・立教大学経済学部教授に岩上安身が聞く


「豊かな国が貧しい国にお金を貸しているのに、貧しい国からどんどん吸い上げられている」
 昨年2014年末、OECD経済協力開発機構)が示した報告書で、大半のOECD諸国における富裕層と貧困層の格差が、過去30年間で最大になっていることが明かされた。さらに、同報告書では、格差拡大によって抑制された経済成長の悪影響が、最下位の貧困層のみならず、下位40パーセントの所得層にも及んでいると指摘されている。
 グローバリズムにおける世界的な貧富の差の拡大を論じるベストセラー『21世紀の資本』著者トマ・ピケティ氏が来日し、格差問題に注目が集まるなか、1月30日(金)14時10分より、IWJ事務所にて、岩上安身による郭洋春・立教大学経済学部教授インタビューを行った。
 郭氏は、従来の経済成長ありきの枠組みとは異なる、民主主義、平和、環境、ジェンダーなどの要素を含んだ新たな開発経済学の構築を研究テーマとしている。1999年に出版されたミシェル・チョスドフスキー著『貧困の世界化―IMF世界銀行による構造調整の衝撃』の翻訳を手がけ、同書は、出版当初の16年前よりもはるかに新自由主義的言説が大きな力を持つこととなった現在においてもなお、示唆に富む一冊として読者を集めている。
 世界銀行IMF国際通貨基金)という国際的融資機関によって途上国に施されてきた構造調整。チョスドフスキーは、これを「残忍かつ破壊的な経済モデル」と呼ぶ。市場開放、規制緩和という新自由主義的政策からなり、その弊害は『貧困の世界化』出版当初よりも明白なものとなっている。各国の国内産業は海外資本に骨抜きにされ、自国通貨の力が相対的に低くなる状態を、「ドル化」と呼ぶチョスドフスキーは、グローバリズムの結果、一元化する価値観に異を唱えている。
 アジア、アフリカ、南米などの個々の国々の実情を分析する郭氏は、絶えずフロンティアを求め続ける資本主義の行く末を案じ、永続的なものではないと語る。覇権国家が移り変わってゆく歴史を振り返りつつ、現在において、関係の悪化が懸念される極東諸国間の関係再構築のための道すじにまで論を展開した。



飢餓の根本原因は何か~“金貸し”(世銀・IMF)が世界の格差を拡大し貧困と飢餓を創り出している

http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/49f3b8809102dc493f56e62a0c1ba380 @cotecanさんから


世界の食糧、特に穀物は、「緑の革命」「ODA」、そして「WTO」によって、アメリカの巨大穀物商社、カーギルとADMの2社にほぼ牛耳られる事となったカーギルが2/3を握る)。


発展途上国の栄養不足人口は、1969年~1971年には約9億9000万人だった。その後、「途上国の飢餓を解消する」と称して莫大な資金が途上国に投入された。結果どうなったか、栄養不足人口は、国連食糧農業機関(FAO)の予測によると、2008年より1億500万人増え、2009年は10億2000万人になった。世界の約6人に1人が飢えに苦むという過去最悪の数字である。

この数十年間に「飢餓を解消するため」に投入された莫大な資金はどうなったか?

ほとんどが米政府と結託した巨大グローバル企業の懐に消えていっただけで、飢餓人口を逆に増加させただけであったというのが事実である。アフリカでは餓死者は増え、地域社会はどんどん破壊されていった。

こんなの、何かおかしくないか? → 「あいのり」が飢餓問題の本質に迫る
 
 「グローバリゼーション」と称して、欧米が主導で行ってきた開発は、途上国にこれまでにない破壊と貧困と格差拡大をもたらした。特に中南米の国々では、その動きを皮肉を込めて「ネオグローバリズム」と呼んでいる。この国際的な破壊を主導したのは誰なのか?

たしかに目立つのは、市場や流通を一手に支配している
カーギルや、種苗・農薬などを独占しているモンサントなどの企業群、そしてその手の企業を政策として支援してきた米政府である。

しかし、その背後にまるで批判を受けず、
今後も「環境」をネタに途上国からの搾取と破壊を続けようとしている勢力があるのを忘れてはならない。

世界銀行IMF、その背後にいる“金貸し”勢力である。

★金貸しは世銀やIMFを利用して暴利を貪る

世界銀行IMFは、ブレトンウッズ体制の目玉で、第二次大戦後の戦後復興を名目に立ち上げられた組織である。実際には、ポンドからドルに基軸通貨体制を移すために国際的な圧力をかけるために創られたと言ってよい。

この組織が、二代目総裁のマクナマラの時代から手がけたのが、「緑の革命」という名の途上国からの搾取のための融資である。


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出典: 【図解】「緑の革命の本質とは」

結局、世界銀行から借りた金を返せなくなって国家は破綻。破綻した国家に、「融資をしてあげましょう」とIMFがやってくる。IMFは融資条件を付け、途上国はそれを断れない。途上国の政策はIMFがコントロールし、ますます途上国を食い物にする法整備や税制を敷いていく。

そういう世界銀行IMFは、資金はどこから調達しているのか。

そのほとんどは、一般市場からである。つまり、運用益を見込んだ投資機関や投資家連中(金貸し勢力)から金をかき集めているという事である。そして金を貸し付けて金利収入を得る。

貸し倒れなどに遭って世界銀行IMFの資金が不足したらどうするのか?

加盟各国に号令をかけ、供出させるのである。ちなみに、2009年10月に、日本が供出を約束した額
は6800億㌦。その後も多額の金を要請されいてる。

世銀やIMFは、国家(途上国)を相手に金を貸し、その金は巨大グローバル企業に還流する。途上国には負債と、破壊された食糧生産環境が残される。
 
世銀やIMFは莫大な金利収入を得るが、途上国の破壊の責任は問われる事はない。



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※画像上の日本語訳:「はい、この通り。あんたがたの発展のためのインフラ整備は完了しました。そのために我々があんたがたに投資してできた借金は、ちゃんと返してくださいね。当然でしょ?」
画像は↓ここから。

 http://www.under.ch/SansTitre/Archives/Images/Vrac3/Vrac3.htm


世銀による新たな共認支配:グリーン・ネオリベラリズム

世界の貧困や飢餓の撲滅を掲げる国連の組織(世界銀行IMF)や、世界の公正な貿易の推進を謳う組織(WTO)が、実は、単にアメリカの巨大企業の利益を上げるためのお膳立てを行う機関に過ぎない。この事実は、なぜか日本ではあまり知られていないが、世界では常識になっている。その証拠に、反グローバル運動は世界中で大きなうねりとなっている。



マスコミしか情報源の無い人々は、世界の福祉を考える超国家的機関である世界銀行IMFWTOが、まさか特定の企業と結びついて金儲けのお膳立てをしている…なんて夢にも思わないだろう。

こうして、人々の素朴な善意さえ、先進国企業によるさらなる途上国からの収奪に利用されているのである(ODAなどはその典型である)。

世銀は、今度は「地球温暖化」「CO2は悪」「自然保護」「アフリカの貧困」「第二の緑の革命」「貧しい人々に食糧を!きれな水を!」を声高に叫ぶことで人々を騙し、莫大な資金を集め、さらに効率よく途上国から収奪しようというシステムを整えていく。
 


現在起こっている、世界の飢餓状況を本当の意味で改善するためには、このような超国家組織(世銀やIMFWTO)による欺瞞、収奪構造を白日の下に晒し、ふつうの人々の共認によって封じ込めていくことが必要なのである。
 
 
★新たな可能性。世界の新たな動き

しかし、世界中の多くの国は、この仕打ちに痛い目に遭う中で、新しい動きをはじめている。

金貸しの支配から逃れて、自分たちで融資機構を作り上げようとしているのが、南米7か国である。2007年の12月に独自の開発銀行を創設した。

他にも、中南米ではエクアドル、ニカラグア、ベネズエラ、他にも、西アフリカのマリ共和国や、ネパールなどで、明確に憲法に「食糧主権」を盛り込む国家も出てきた。

欧米を中心とした「開発援助」を口実とした非道な搾取と破壊は、
世界中から非難をあびている。

今やそれを知らないのは日本だけになったと言ってもいい。

その欧米の要請に唯々諾々と従って巨額な予算を国際金融組織に供出させられている。

我々の税金が、途上国の破壊と搾取の地ならしのために
利用されているのである。


我々は、共認支配から脱して現状を正しく捉え、このような非道なやり方に明確に「No」を突きつけないといけない。そして、搾取され続けてきた途上国と提携しながら、「実質的な植民地支配」を引きずった関係ではなく、まともな国際関係を築いていく流れを作り、国際世論をリードしていくべきである。

幸い、米国発の世界的な金融危機から、それまで一方的に途上国から搾取してきたシステムそのものが破綻しようとしている。金融システムの破綻はメディア支配の綻びも生じさせ、途上国の人々の怒りの声を封殺し続けることが、もはやできなくなってきている。

そのような実現基盤のもとで、
あたりまえの事を「あたりまえ」と共認さえすれば、事は成る。

既存の支配勢力が力を失った現在、
そういう可能性を探っていける時代が到来したのである。






4月25日
元「報ステ」の恵村さんの社説がいい。日本が戦争に突き進んだ時代を振り返る加藤周一の言葉を紹介している。 「言論の自由は、そしてあらゆる批判精神は、指の間から漏れる白砂のように、静かに、音もなく、しかし確実に、失われつつあったのである」


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或旧友へ送る手記 芥川龍之介

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/20_14619.html

誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。

僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。 尤(もつと) も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも 善(い) い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。

が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。
何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。従つて僕は君を 咎(とが) めない。……


(後略)

(昭和二年七月、遺稿)


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戦争責任者の問題 伊丹万作



 
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、
その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。

それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。

そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、
実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。

考えれば考えるほどわからなくなる。

そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。


さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。
みながみな口を揃えてだまされていたという。

私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。

ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。


多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。

たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、
軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。

上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。

すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、
いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。

しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、
つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。


このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、
ラジオのばかばかしさや、
さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。

私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。


もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。
しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。

そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の 保鞏ほきよう につとめていたのであろう。


少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、
だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。


いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。

そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。


しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。

「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。


いたいけな子供たちは何もいいはしないが、
もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、
彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。


もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。

ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。


ちろんその場合は、ごく少数の人間のために、
非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、
はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、
しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。


しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、
私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。


だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、
半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。

我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。

これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。

つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、
昔から決していばつていいこととは、されていないのである。


もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。
しかし、有機生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。
すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。
これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。


また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいても
だれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。

つまりだますものだけでは戦争は起らない。
だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。


そしてだまされたものの罪は、
ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも造作なくだまされるほど
批判力を失い、
思考力を失い、
信念を失い、
家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた
国民全体の文化的無気力、
無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。


このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

それは少なくとも個人の尊厳の 冒涜ぼうとく

すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。
また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。
ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。


我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。
しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、
日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。


「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、
一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、
私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、
おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

いや、
現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。


一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、
それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような 脆弱せいじやく な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。

こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。

しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。

すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。

つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。
便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、
人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。
現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。

しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。
しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。

いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。
これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。

しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。

たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。
けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。

もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。
しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。

戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。
そのためには何事でもしたいと思つた。
国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。

親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。

この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。

このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。

は、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。
それも私にはわからない。

ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。

では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。

昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。
それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。

そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」

つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。

つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。
もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。
なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。

この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。
最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。
元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。
(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する羽目に陥つている。
今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。

最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。
しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。
また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)