戦争体験のある有名人が見た戦争



俳優業は「悪しき社会への抵抗」
 

俳優とは、ある作品について、その役を演じて、
それはなんか悪しき社会に対する抵抗だと思っておりまして、
それがあるからこそ俳優を続けてきました。


太平洋戦争が終わった時、私は中学1年でございました。

戦争中は小学生ですから、日本国のため、日本は絶対負けないんだ、
神風が吹くんだと信じていました。


天皇陛下のために絶対死ぬんだという精神を叩き込まれ、
なんら戦争に対して批判的な目をまだ持っていない小学生でございました。


それで中学1年の時に、昭和20年8月15日の終戦を迎え、
その後、食べるものがまったくない飢える時代となったわけです。


今まで絶対勝つんだと信じていたのに、


大人たちは敗戦の8月15日を迎え、
この日を境に急に親米派になって、
アメリカ、イギリスは敵だと言っていたのに、
降参して平和を目指せと言うようになり、


中学1年の幼い私は、心の中でなんたる大人どもだと、

これまで戦え戦えと言っていたのはなんだったのかと。



人間不信といいますか、
結局、それからひどい生活を送って、
最終的には俳優という仕事を選ぶわけですけれども、

その少年期、青年期に受けた思いが、
悪しき体制に対する抵抗として、
これまで出演した150本ほどの映画の中においても常にあった気持ちなのです。





やなせたかし アンパンマン[本当の正義とは] 独占インタビュー:



心に響く やなせたかしの名言集: http://youtu.be/vr5uFniW6nE



「正義のための戦いなんてない」やなせたかしアンパンマンに込めた思いとは?    ダ・ヴィンチニュース 2013.10.19



自分の顔をちぎって人に食べさせる。
そんな心優しきヒーロー・アンパンマンが誕生した背景には、
やなせの戦争体験があったという。

21歳で召集され26歳まで軍隊で過ごした。

終戦間際には、上海決戦に備え1000キロの行軍をした。

そして飢えに苦しんだ。

こうした体験からやなせは痛烈に思った。
「肉体的苦痛は、いつか慣れる。でも、ひもじさだけは何より情けなく、
何よりも耐えがたい」と。

さらに帰国後は弟の戦死という悲痛な出来事も。


こうした戦争体験がアンパンマンを生んだという。

「この社会で一番憎悪すべきものは戦争だ。絶対にしてはいけない」



さらに戦争終結によってこれまで信じてきた「正義の論理」さえもが
ひっくり返ってしまう。


「正義は不安定なもので、ある日突然逆転する」
「正義のための戦いなんてどこにもないのだ」と。


やなせはアンパンマンを書いたのは「本当の正義」を伝えたかったからという。

アンパンマンはヒーローだが情けない。弱点もたくさんある。
そして相手を決して殺さないし、「自分はエライ」と自慢しない。

 「正義を行う人は非常に強い人かというと、そうではないんですね。
我々と同じ弱い人なんです」
 

アンパンマンは人が喜んでくれることが一番うれしい。
決して最強ではないが、身近な人の幸せを願い、困った人を助けることこそが正義なのだと。

一貫して「愛と勇気」を伝えたアンパンマンは今後も多くの人びとに親しまれ続けるだろう。

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1940年(昭和15年)、20歳の時に徴兵・甲種合格で兵役に就いた。
これが父母との永遠の別れになった。

中国大陸で育ったことから、徴兵に際し死を覚悟し、
父親の勧めで初めて日本(神戸)の土を踏んだ。

写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されるが、
そこでのしごきが凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、
声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだったと、テレビのインタビューで語った。


そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、
航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。

息子の史郎の話では、上官から家族の写真を撮ってほしいと呼びだされ、
その出来が良かったので教育隊に残るように言われ、
仲間はみな南方の戦地に赴いたが、そのおかげで生き残ることが出来たと、
忸怩たる思いで語ったという。

また、三船は後年まで、カメラに対するこだわりが深かったという。

その後、1941年(昭和16年)、内地で、滋賀県八日市八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され(後に第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をしていた。)

1940年(昭和15年)、三船は先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)から、
「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。
撮影助手に使ってやる」と誘われた。

が、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで6年間を兵役に就いた。

上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のまま6年間を過ごした。

1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、
出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事した。

写真班で、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、
少年兵の教育係も任された。
自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなる。

敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐したという。

息子である史郎の話によると、
明日出陣する少年兵には、スキヤキを作って食べさせたと
涙を流して語ったという。


また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたという。

後に、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、海外のマスコミの取材に対して語った。





はだしのゲン反戦争、反原爆のバイブル『戦争に行く前に読むべきだった』イラク戦争元米兵!!  @sohnandae 2013-08-27



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僕らは嫌というほど戦争の恐ろしさ
核兵器の恐ろしさを
味わってきたわけだから
もう二度とこれを繰り返してはいかん

戦争とは原爆とはを
わかっていただけれは本望です。
 
原爆を主題にした漫画を書くのはしんどいが
子供らは素直に、何が真実かを見きわめてくれます。


ですから肩をはるのではなく
リラックスしながら子供が作品に
入って行けるようにと念じつつ描き続けました。





宮崎駿メッセージ】「風たちぬ」「また、同じ時代がきたから・・」『9条と自衛隊いまのままでいい』    @sohnandae 2013-09-05



もちろん、憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。
おかしいけれど、そのほうがいい。

国防軍にしないほうがいい。

職業軍人なんて役人の大軍で、本当にくだらなくなるんだから。


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