東京新聞社説-自衛隊海外派遣 前のめりにも程がある


自衛隊海外派遣 前のめりにも程がある http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015030202000177.html  :社説・コラム(TOKYO Web) 東京新聞 2015/3/2


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政府は自衛隊の海外活動をどこまで拡大すれば気が済むのか。
自衛隊の活動範囲を広げ、武器の使用も拡大すれば、
憲法九条は骨抜きにされてしまうのではないか。

前のめりにも程がある。

安全保障法制整備をめぐる先月二十七日の与党協議で、
政府側は、自衛隊による在外邦人の輸送や警護に加え、
救出も可能にしたい意向を示した。

自衛隊派遣は外相と防衛相との協議だけでなく、
国家安全保障会議(NSC)で議論した上で首相が判断する、との案も提示したという。

在外邦人の保護は国際法上、在留先の国の義務だ。
自衛隊が外国の同意を得て邦人救出作戦を行う蓋然(がいぜん)性はどこまで高いのだろうか。

政府側が示した過去の外国の例も一件のみである。
公明党側が「極めてまれだ」として非現実性を指摘するのも当然だ。

政府側は、邦人救出は警察的活動であり、
たとえ武器を使用しても相手が国家や「国家に準ずる組織」でなければ、
憲法九条が禁じる海外での武力の行使には当たらないと考えているのだろう。

しかし、九条は、日本が海外で武器を使い、銃砲火を交えることが二度とあってはならない、
というのが趣旨ではないのか。

たとえ警察的活動が名目でも、海外で武器を積極的に使うような活動に自衛隊を派遣することは厳に慎むべきだ。

そもそも武器使用を前提とする活動への派遣を、政府だけの判断で行っていいのか。
国会承認など、歯止めが必要だ。


政府は与党協議で、これまで日本の平和と安全に重要な影響を与える「周辺事態」に限ってきた船舶検査の活動領域を日本周辺以外にも広げ、船長の承諾を不要にしたい、との考えも示したという。

船舶検査の目的が「国際社会の平和と安定」であっても、
日本周辺以外に野放図に広がっていいわけではなかろう。


船長の承諾がなくても船舶検査できるようになれば、抵抗も予想され、
武器使用がエスカレートしかねない。

もし日本周辺以外での船舶検査が必要な状況が生じれば、
一般法でなく特別措置法で対応すべきだ。

船舶検査活動法で必要とされている国連安全保障理事会の決議や船舶が帰属する「旗国」の同意も大前提である。武器使用も抑制的でなければならない。


安倍政権は「積極的平和主義」さえ掲げれば、
自衛隊の活動範囲を限りなく拡大できると考えているようだが、
それは憲法を逸脱する誤りだと警鐘を鳴らしたい。




国家の暴走 / 古賀 茂明【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア  https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784041018149


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内容説明
日本人にとって“今、そこにある危機”戦争への道を回避するには!?
安倍政権による“軍事立国”化を食い止めよ!
日本版NSC設置法、特定秘密保護法集団的自衛権の行使…
「恐怖の三点セット」の真意とは?


目次
序章 加速する暴走
第1章 「軍事立国」への暴走
第2章 戦争をするための「一三本の矢」
第3章 本当の「積極的平和主義」とは
第4章 アベノミクスの限界
第5章 間違いだらけの雇用政策
第6章 日本再興への提言
終章 「改革はするが戦争はしない国」へ



著者紹介
古賀茂明[コガシゲアキ]
1955年、長崎県生まれ。
東京大学法学部を卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。
大臣官房会計課法令審査委員、産業組織課長、OECDプリンシパル・アドニミストレーター、
産業再生機構執行役員、経済産業政策課長、中小企業庁経営支援部長などを歴任。

2008年、国家公務員制度改革推進本部事務局審議官に就任し、
急進的な改革を次々と提議。
09年末に経済産業省大臣官房付とされるも、
10年秋に公務員改革の後退を批判、
11年4月には日本ではじめて東京電力の破綻処理策を提起した
(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)





集団的自衛権:28人が自殺...真相!戦場に行った自衛隊  http://youtu.be/dZNzbvt2jbE



陸上自衛隊イラク派遣隊員は語る

「消せるものなら消したいです、この記憶は。

宿営地の中に砲弾を撃ち込まれて
コンテナの中で寝泊りしてたんですけど
コンテナの脇に着弾して兆弾になって
コンテナをぶち抜いていったんですよ。


いつでも戦場になりうる、その狭間ですか
夜寝てもコトッて音がしただけで
ふって目が覚めるんですよ。
いつでも使用できる銃を持ってたんで
それが一つの支えだと思います。


帰ってきてからけっこう"壊れちゃった"のがいます。

最終的に退職した者とか

(自分の命を絶たれる方もいたと伺ってますが)
全部表には出ないように
はっきり言って隠しました。
いろんなことがあったのを」




汚染水が海へ 全ての情報を公開せよ  http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015022602000147.html :社説・コラム(TOKYO Web) 東京新聞 2015/2/26


まだ懲りていないのか。

東京電力は、福島第一原発の汚染水が外海に流出し続けていたのを放置し、
公表もしなかった。

原子力につきまとう隠蔽(いんぺい)体質を改善しないと、事故処理も進まないだろう。


安倍晋三首相は言った。

汚染水は「全体としてコントロールされ、影響はブロックされている」と。

ところが、高濃度の放射能汚染水が原発構内から外洋に漏れ続けていたことが、
明らかになった。


2号機の建屋の屋上にたまったものが雨で流され、排水溝から外に出た。
雨が降るたびに放射性セシウムストロンチウムの濃度が高くなっていた。

2号機は爆発こそ免れたものの、格納容器内の圧力を下げるため、
放射性物質の濃度が高い蒸気を外へ放出せざるを得なかった。

そのため、1~3号機の中で最も多量の放射性物質を放出したと、されている。

雨水は止められない。汚染水対策の難しさを、あらためて思い知らされた。

だがそれ以上に問題なのは、東電がこのことを一三年十一月には知っていながら公表せず、
応急措置も施していないことである。

住民の健康や漁業者の生活に直結する重大な情報こそ、コントロール(操作)され、ブロック(遮断)されていたのである。

原子力業界の隠蔽体質は、かねて指弾されてきた。
情報を表に出したがらないムラ社会の体質が、福島の事故につながったという指摘も多い。

これだけの惨事を起こしていながら、変われないのはなぜなのか。
生命や安全を軽視し続けるのはなぜなのか。

国と東電は、汚染水対策の一環として、建屋の周りに掘った井戸からくみ上げた地下水を、浄化して海に流す方針で、漁業者との協議を進めてきた。

「信頼関係が崩れた」と漁業者が怒るのは当然だ。
漁業者にとって、海は生活の糧なのだ。

漁業者だけではない。
原発原子力事業者に対する不信と不安は、3・11で頂点に達した感がある。

電力会社に不利な事実やデータをも洗いざらい公開する姿勢がないと、不信はぬぐえない。
国民の不安は募る。
一つの隠し事があれば、他にもあるのではと、考えて当然である。
誠意がなければ理解は得られまい。


首相は汚染水の監視とデータの解析、公表を、命じられないのだろうか。
コントロールとブロックを約束したのだから。


 

「神風」「人間魚雷」の元隊員、90歳超え語る平和への想い (1)  http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NJNBCA6JIJV601.html Bloomberg 2015/2/27


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 (ブルームバーグ):元神風特攻隊員の手塚久四(ひさし)さん(93)が
出撃命令を受けたのは終戦2日前。

爆装された特攻機が待つ最前線基地へと向かう途中で玉音放送を聞き、
日本は負けたのだと知った。

「死ぬために来たのに、死ななくて済むのか。そう思い至るまで時間がかかった」。


出撃に当たり、北海道の千歳基地から
特攻の訓練地である香川県の観音寺基地まで陸路で移動したが、
途中で列車が何度も止まった。

空路なら終戦前に到着し、実際に出撃していたかもしれない。
「運命の分かれ道だ」と手塚さんは語る。


海の特攻と言われる人間魚雷「回天」の部隊に配属された岩井忠正さん(94)は、
結核の診断を受けて隊を異動。
その後回復し、広島県呉市沖合の情島(なさけじま)にあった基地で敗戦を迎えた。

屋内から原爆を目撃した瞬間を、
「空が奇麗に白く光った。
何だ何だと言っているうちにドカーンという大きな音が聞こえた。
それで間もなく敗戦だ」と話す。


入隊前から「どうせ自分は戦争で死ぬ」と思い続けてきた岩井さん。

玉音放送は部隊の仲間と直立不動になって聞いた。

「負けることは分かっていた。
ただ、自分が生きているうちに負けたことが意外だった」と振り返る。


それから70年。
いずれも90歳を超えた2人の元特攻隊員は、
安倍晋三政権が今夏に戦後70年談話を発表するのを前に、平和の尊さを訴えた。

手塚さんは1月、岩井さんは2月、
それぞれの自宅で行ったブルームバーグ・ニュースのインタビューで語った。


危機感

「生き残って申し訳ない」という気持ちを抱き、戦後の日本を見てきた。

今は口をそろえて日本の将来を案じる。

「戦前の日本は自由のない悪い国だった。
だけど今、政治も思想も再び右傾化している。
戦後レジーム脱却だと。
戦前に戻ると。
自衛隊国防軍にすると。
逆なんだ、日本は」と手塚さんは語り、
「歴史に学ばざれば過ちを繰り返すという言葉がある」とつぶやいた。


陸軍将校の父を持ち、日本統治時代の大連で幼少期を過ごした岩井さん。
大連にいた時は「日本人は中国人よりも優越的な存在なのだと当然のように思っていた」というが、大学受験のため東京に戻ってから、
「大連は日本が侵略した土地なんだと気づいた」と話す。


岩井さんは戦前・戦中の社会について、
「世の中の風潮が右傾化していて反感を覚えた。
体制批判は禁止され、権威で言論を抑圧していた」と話す。

そして、「右傾化に対抗したい。そのためには哲学が必要だ」との思いから
慶応義塾大学で西洋哲学を学んだ。


安倍首相は25日、戦後70年談話をめぐる有識者懇談会の初会合を開いた。
談話作成に当たっては、1995年の村山談話にある「植民地支配」と「侵略」を反省し、
お詫びを表明した文言が記述されるかどうかが焦点となっている。


手塚さんはこうした文言が盛り込まれなければ「他の国から軽蔑される」と指摘し、
岩井さんは「心からそう思わないといけない」と力を込める。

有識者懇の西室泰三座長は25日の会合後、過去の談話の表現を懇談会の議論でどう取り扱うかについて「現状は白紙」と記者団に語った。


靖国神社の在り方にも疑問を持っている。
手塚さんは「A級戦犯分祀すべきだ。国のために亡くなった人に尊崇の念を払うと安倍さんは堂々と言うけれど、戦争犯罪人だ。戦争を起こした張本人だ」と指摘。


岩井さんも、「あれは追悼施設ではない。侵略戦争で死んだ人を称えている。
私はあの前を何度も通ったけど、お辞儀したことは一度もない」と話した。



美化

手塚さんは特攻の美化を危惧する。

2006年に太田出版が発行し、2009年に講談社が文庫化した百田尚樹氏のベストセラー小説
「永遠の0」は2013年に映画化された。
家族を残して死にたくないとの思いを抱くベテラン零戦搭乗員が、
最後には特攻で出撃して命を落とすという話だ。

百田氏は同年に安倍首相との対談本も出版している。

零戦搭乗員でもあった手塚さんは、
「あの本は特攻を美化している。それにみんなが乗っかってしまっている」と指摘。
「特攻は残酷だと。二度とやってはいけないと。
ちゃんとした評価をしなければいけない」と語った。


東海大学で平和学を教える鳥飼行博教授は
「戦争体験者が少なくなるにつれて特攻を美化する傾向が強まっている」と指摘。

「本当の戦争を知らないから、
映画やドラマのイメージでもって、特攻は格好いいとか、
隊員は頑張っていたとか、そういう考えになる」と述べた。


米国の戦略爆撃調査団の報告書によると、
1944年10月から沖縄戦が終わるまでの間、2550の特攻機が出撃したが、
戦果を挙げたのは18.6%だった。

敗戦時には9000以上の特攻機が日本に残っており、
うち5000以上はすでに出撃準備が整っていた。

公益財団法人の特攻隊戦没者慰霊顕彰会は、
訓練中の事故で亡くなった人を含めて約6400人を特攻の戦死者に挙げている。


矛盾

戦争の大義に疑問を持ち、日本の敗戦を見通していた2人は、
それでも自らの特攻を必ず成功させるのだという矛盾した感情を抱いて
軍隊での日々を過ごした。


東京大学で米国経済を学び、日米の工業力の差を理解していた手塚さんは、
「長期戦になると負けるな、と確信に近いものを持っていた」と話す。

岩井さんは「この戦争はやるべきではない。
日本が中国を侵略するところから始まった戦争に大義はないと思っていた」と語る。


手塚さんが本格的な特攻訓練を始めたのは、日本が沖縄戦に敗れ、
本土決戦が現実味を帯びてきた1945年7月。
高度3000メートルから垂直に急降下し、400メートルで再び上昇する。
死ににいくための訓練だ。


「最後は爆弾代わりに死ぬんだけど、途中でつまらない死に方をしたくないから、
みんな技量はきちんと磨いていた。特攻を必ず成功させるんだと」と手塚さん。

慶大に学んでいた岩井さんが召集されたのは1943年のことだった。
「学徒出陣という言葉が好きではない。
挙国一致のスローガンに利用されたような感じだ」と話す。

ほどなくして、岩井さんは回天隊に移る。

「本物の回天を見た時はぞっとした。
15メートルほどの鉄の棒で、これが俺の棺桶かと思った」と振り返る。


それでも岩井さんは、「どうせ死ぬなら特攻を成功させたかった。
矛盾しているが、負けたくなかった」と話す。

そして今、大義を疑いながらも入隊したことについて
「大勢に妥協してしまった。私にはその罪がある」と苦しみ続けている。



戦後

同じ時代に同じ疑問を抱き、共に死を覚悟した経験を持つ2人は、
それぞれの戦後を生き抜いてきた。


手塚さんは大学卒業後、戦時中は敵方と教えられてきた米国人と手を組み、
日本企業の新入社員に海外研修を提供する事業を起こした

。岩井さんは生活のために大学の卒業を断念。
職を転々とした後、ロシア語を独学で習得し、貿易会社に入社した。
退職した今も翻訳の仕事を続けている。


横浜の夜景が一望できるマンションに住む手塚さんは、水墨画や書道を楽しむ余生を送る。

部屋の隅には娘から贈られたという零戦の模型。
特攻隊の仲間と撮った写真も大事にしまってある。
今でも生き残った海軍の同期と酒を酌み交わすこともあるという。


岩井さんは、東京郊外の小さなマンションで、長年連れ添った妻と2人、
好きなクラシック音楽を聴く日々だ。
1番の楽しみは月に数回訪れるひとり娘と過ごす時間で、
カレンダーにつけられた印に何度も目をやる。

戦時中の品物は「胸くそが悪い」として売り払った。
岩井さんの部屋に、70年前を思い起させるものはない。


記事についての記者への問い合わせ先:東京 高橋舞mtakahashi61@bloomberg.net
記事についてのエディターへの問い合わせ先: Andrew Davis abdavis@bloomberg.net;大久保義人 yokubo1@bloomberg.net 広川高史, 谷合謙三,上野英治郎
更新日時: 2015/02/27 17:39 JST





1940年(昭和15年)、20歳の時に徴兵・甲種合格で兵役に就いた。
これが父母との永遠の別れになった。

中国大陸で育ったことから、徴兵に際し死を覚悟し、
父親の勧めで初めて日本(神戸)の土を踏んだ。

写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されるが、
そこでのしごきが凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、
声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだったと、テレビのインタビューで語った。


そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、
航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。

息子の史郎の話では、上官から家族の写真を撮ってほしいと呼びだされ、
その出来が良かったので教育隊に残るように言われ、
仲間はみな南方の戦地に赴いたが、そのおかげで生き残ることが出来たと、
忸怩たる思いで語ったという。

また、三船は後年まで、カメラに対するこだわりが深かったという。

その後、1941年(昭和16年)、内地で、滋賀県八日市八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され(後に第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をしていた。)

1940年(昭和15年)、三船は先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)から、
「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。
撮影助手に使ってやる」と誘われた。

が、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで6年間を兵役に就いた。

上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のまま6年間を過ごした。

1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、
出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事した。

写真班で、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、
少年兵の教育係も任された。
自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなる。

敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐したという。

息子である史郎の話によると、
明日出陣する少年兵には、スキヤキを作って食べさせたと
涙を流して語ったという。


また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたという。

後に、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、海外のマスコミの取材に対して語った。






俳優業は「悪しき社会への抵抗」
 

俳優とは、ある作品について、その役を演じて、
それはなんか悪しき社会に対する抵抗だと思っておりまして、
それがあるからこそ俳優を続けてきました。


太平洋戦争が終わった時、私は中学1年でございました。

戦争中は小学生ですから、日本国のため、日本は絶対負けないんだ、
神風が吹くんだと信じていました。


天皇陛下のために絶対死ぬんだという精神を叩き込まれ、
なんら戦争に対して批判的な目をまだ持っていない小学生でございました。


それで中学1年の時に、昭和20年8月15日の終戦を迎え、
その後、食べるものがまったくない飢える時代となったわけです。


今まで絶対勝つんだと信じていたのに、


大人たちは敗戦の8月15日を迎え、
この日を境に急に親米派になって、
アメリカ、イギリスは敵だと言っていたのに、
降参して平和を目指せと言うようになり、


中学1年の幼い私は、心の中でなんたる大人どもだと、

これまで戦え戦えと言っていたのはなんだったのかと。



人間不信といいますか、
結局、それからひどい生活を送って、
最終的には俳優という仕事を選ぶわけですけれども、

その少年期、青年期に受けた思いが、
悪しき体制に対する抵抗として、
これまで出演した150本ほどの映画の中においても常にあった気持ちなのです。





最高裁の瀬木比呂志氏が暴露「裁判所はいまや権力の番人だ」  http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/157670 日刊ゲンダイ 2015/3/2


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「大きな権力を持っている人こそ自制を」(C)日刊ゲンダイ



時の政権が最高裁と組んで言論弾圧

安倍政権になってからというもの、メディアが政権に遠慮し
「物言えぬ空気」が広がっているのは、あちこちで識者が指摘している通りだ。

そこにはさまざまな理由が絡み合うのだが、そのひとつに見過ごせないものがある。

時の政権が最高裁判所と組み、名誉毀損裁判における損害額を引き上げようとするなど、
言論弾圧のような政治介入をしていたという事実である。

驚愕の真相を著書「ニッポンの裁判」(講談社)でえぐり出した元最高裁勤務のエリート裁判官、明治大法科大学院教授の瀬木比呂志氏に聞く。




――瀬木さんは東大法学部在学中に司法試験に合格、
1979年から長きにわたって裁判官として勤務された。
つまり、司法の現場を知り尽くしています。

私たちは、日本は三権分立ですから、司法は独立して行政の暴走をチェックする。
そういうものだと思っていましたが、違うんですか?
  


裁判所は憲法の番人といわれますよね。
だから、国家が変なことをすると、「そういうことをしちゃいけませんよ」と釘を刺す。
それが憲法の番人の意味するところでしょうが、違います。

今は権力の番人といってもいいんじゃないですか? 
裁判官は独立しているというのは誤解で、
上や多数派は、法衣を着た役人です。

だから、支配と統治の根幹に関わる部分では、権力側の意向を忖度するんです。



――それを示した例は本当にたくさんあるんですね。
木で鼻をくくったように門前払いされる行政訴訟とか国策捜査による冤罪事件とか。
行政側がいつも勝つ。
でも、まずは名誉毀損裁判です。
最近は名誉毀損による損害額が高騰し、メディア側が丁寧な取材をしても大体、負けているんですね。その裏に政治介入があったと?
  

2001年くらいから状況が一変しているんです。
それまでは損害賠償請求の認容額は100万円以下だったのに、一気に高額化し、
また裁判所も被告(メディア側)に対して、非常に厳しくなり、
その抗弁を容易に認めなくなりました。

その背景にあった事実として、01年3月から5月にかけて、
衆参の法務委員会等で自公の議員や大臣が「賠償額が低すぎる」「マスコミの名誉毀損で泣き寝入りしている人がいる」などと言い、最高裁民事局長が「そういう意見は承知しており、司法研修所で適切な算定も検討します」と回答しているんですね。

これに呼応するように、裁判官が読む法律判例雑誌である「判例タイムズ」(5月15日号)に「損害賠償は500万円程度が相当」という論文が出て、司法研修所で「損害賠償実務研究会」が開かれた。同じ雑誌の11月15日号には、その報告が出ていて、慰謝料額の定型化のための算定基準表なんかがついている。さらに、直近の、損害賠償額が高額だった判例もついていました。これはおかしいなと思いましたね。


――政治家の発言と研究会が開かれたタイミングを見ると、
完全に連携しているように見えますね。


  判例タイムズの5月号に論文を掲載するには3、4カ月前から執筆依頼をしなければならない。つまり、国会質問が出る前に、最高裁からこういうのをやったらどうか、という働きかけがあったのでしょう。
その前には政治家からの突き上げがあったと思う。
当時、森政権や創価学会は、ものすごくメディアに叩かれていましたからね。


――政治家がメディアを牽制するために「損害賠償の額を引き上げろ」と言って、最高裁が「はい、わかりました」と言うものなんですか?
  

わかりません。水面下のことですから。
でも、何も注文がないのに、裁判所がこんなふうに急に動くことはありえないと思います。


――その損害賠償額の算定基準表にも驚かされました。
被害者の職業によって、社会的地位がランク分けされていて、
タレントが10、国会議員が8、その他が5と書いてある。
  

なぜ、一般の人がタレントの半分で、国会議員より低いのか。
どう考えても異常ですが、理由を考えて思い当たった。
タレントを高くしたのは、週刊誌を萎縮させるためでしょう。
国会議員が8なのは、タレントの下に潜り込ませて目立たないようにするためだと思います。
本来、国会議員は公人中の公人です。
常に正当な批判にはさらされて当然なのに、おかしなことです。


しかし、もっと問題なのは、これをきっかけにメディア側が立証すべき真実性、
あるいは真実だと信じるに足る根拠、真実相当性ですね。
このメディア側の抗弁が容易に認められなくなったんですよ。
もちろん、学者や裁判官が議論して、下から判例を積み上げていくのはいい。
しかし、こういうふうに上から統制すべきことじゃないでしょう。


――こういうことがボディーブローになって、今の安倍政権への遠慮、萎縮があるように感じます。
  
メディアは報道責任を果たせなくなったと思います。
その理由は両方です。
権力側の規制、メディアコントロールと、メディア側の自粛です。

04年に市民運動家自衛隊の官舎に反戦のビラをまいて、
住居侵入で捕まった事件がありました。
表現の自由に重きを置く欧米だったら、不当逮捕だということで、大騒ぎになったと思います。

ところが、1審は無罪だったのに高裁、最高裁
表現の自由も重要だが公共の福祉によって制限を受ける。
従って、本件ポスティングは住居侵入罪」として
まともな憲法論議をほとんど行わずに決着させた。


日本は本当に近代民主主義国家なのかと思いましたが、
こうした大きな問題をマスコミもほとんど取り上げないんですね。
だから、既成事実として積み上がっていってしまう。
社会がどんどん窮屈になる。


日本は大丈夫なんですかね。
テレビを見ていると、やれ、中国が悪い、韓国がケシカランとやっていて、
それが悪いとは言いませんが、
自分の国の自由主義と民主主義の基盤が危なくなってきているのだから、
そのことをまず報道すべきではないでしょうか?



――そもそも、権力と司法は、昔から癒着していたのでしょうか? 
それとも、森政権以降、露骨になってきたのでしょうか?
  

1960年代は最高裁も比較的リベラルな時代でした。
それに危機感を抱いた自民党が、右翼的な考え方の持ち主である石田和外氏を5代目最高裁長官に据えて、いわゆる左翼系裁判官を一掃するブルーパージ人事をやった。

戦後の裁判所の自由主義の潮流は、ここで事実上、息の根を止められ、
以後、裁判所、裁判官全体に権力追随の事なかれ主義が蔓延するようになったと思います。

まあ、それでも、そのあと4人くらいの長官は極端な支配統制はしなかった。
でも、それから最高裁事務総局系の長官が出てくるようになり、
2000年代以降に裁判所は、精神的「収容所群島」化してしまったと思いますね。
 


■勇気ある裁判官は5~10%

――名誉毀損裁判の件も一例でしょうが、裁判官の独立よりも上からの統制。
逆らえなくなったという意味ですよね。
そうした圧力に屈しないというか、まともな裁判官はいないんですか?
  

5%、多くて10%くらいかなあ。勇気があるのは。
でも、そういう人は間違いなく出世しない、あるいは辞めていってしまう。


――行政訴訟の原告側の勝訴率が8・4%(2012年)ということにも驚かされます。
  

裁判所は実は「株式会社ジャスティス」なんです。
軸になるのは最高裁事務総局で、ここが権力の意向を見る。

裁判所は独立が確保された特別な場所ではありません。

元判事補で今、学者になった人は在籍当時、最高裁秘書課等から論文の削除訂正を求められた経験をネットで書いていました。
これは検閲で憲法21条に反する。

他にも裁判員制度の広報活動で、契約書を交わさないまま事業を行わせていたことなど、たくさんある。
裁判所が法を犯しているのですから信頼されるわけがないです。


――そんな司法と政治が結託すれば、何でもできてしまう。
  

以前の自民党は、それでも権力者としてのたしなみがありましたね。
これだけはやっちゃいけないみたいな。

それが今は、なくなっている。


――とりわけ安倍首相には、たしなみのなさを感じます。
  

自由主義、民主主義を掲げているわけですから、
その根幹を崩すようなことだけは、どの世界の人もやめていただきたい。
大きな権力を持っている人こそ、自制してほしいと思います。


▽せぎ・ひろし 1954年生まれ。東大法学部在学中に司法試験合格。
東京地裁裁判官、最高裁調査官を経て、2012年明治大法科大学院専任教授。
「絶望の裁判所」「ニッポンの裁判」(ともに講談社現代新書)が話題。








不屈の三線辺野古に響く 機動隊がテント撤去・解体  http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=105779   沖縄タイムス+プラス 2015/3/5



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機動隊(奧)によってテントが撤去される中、毅然と三線を引き続ける市民ら=4日、名護市辺野古キャンプ・シュワブゲート前



【名護】「持ち上げろ!」「移動!」。県警機動隊員の怒号が飛び交う中、
18人の三線奏者は真っすぐ前を見据え、毅然(きぜん)と「かぎやで風」を弾き続けた。

「さんしんの日」の4日、米軍キャンプ・シュワブゲート前で開かれた演奏会で、
機動隊員によって雨よけのテントが解体された。(西江千尋、阿部岳)
 

演奏会は、うるま市の伊波義安さん(73)が企画した。

「新基地建設反対は、沖縄のアイデンティティーを懸けた闘い。辺野古で弾こう」と呼び掛けると、琴や踊りも含めて1週間で29人が集まった。
 


機動隊員が踏み込んできたのは、午前10時の演奏を前に音合わせをしていた午前9時15分ごろだった。
屋根が消え、小雨が舞った。
それでも演奏し続けた那覇市の渡口正三さん(59)は「負けてたまるか、という気持ちだった」。
 


沖縄市の平良悦美さん(80)は
「機動隊員が興奮する中で、皆落ち着いて弾いていた。
人間力、文化力の勝利だね」と手をたたいた。
 

本番の演奏には、国指定重要無形文化財「組踊」保持者の島袋英治さん(72)=沖縄市=も加わった。
フェンスの前で弾くのは初めて。


「沖縄の文化、平和の心を聴け」。
怒りか感慨か、こみ上げるものがあり「声が止まりそうになった」と笑った。
 

抗議行動をする市民の精神的支えになっている辺野古区の島袋文子さん(85)は叔母に当たる。
三線に合わせ、ずっと口ずさんでいた文子さんは
「ウチナーンチュは悲しい時も怒った時も三線を弾いてきた。
沖縄の文化はアメリカーでも奪えないよ」と語った。