あとで読む予定)<日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉>
あとで読む予定)<日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉>
井上卓弥 悲劇は1945年8月9日に始まった<日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉第1回>
「難民」という言葉を聞くと、何をイメージしますか?
ここ数年で急増し、支援が急がれているのは、「シリア難民」と「イラク難民」です。
難民の保護・援助のために設立された国連の特別機関「国連難民高等弁務官事務所」(UNHCR)の日本語サイトでは、難民とは、「政治的な迫害のほか、武力紛争や人権侵害などを逃れるために国境を越えて他国に庇護を求めた人々」と解説されています。
日本で「難民」と言うと、「外国から日本に逃れてきた人たちを『難民』と認める審査が厳しい」「受け入れ体制が整っていない」など、もっぱら「受け入れ」側としての話が問題になります。
ですが、ほんの70年前、百万人にものぼると言われる日本人が「難民」となって、過酷な生活を強いられていました。
本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。
* * *
一九四五年八月九日――。
それは、満洲国に渡った日本人にとって決して忘れることのできない日付である。
この日を境にして大陸にかけた夢は無残についえ、人々は見捨てられたように、身ひとつで曠野(こうや)をさまようことになったのだから。
「満洲国」とは、1932年、中国の東北部を占領していた日本が樹立した国家です。
独立国家のかたちをとっていますが、実質的には日本が支配していた「傀儡(かいらい)国家」です。
首都は新京(しんきょう 現在の長春)におかれました。
終戦前の新京の人口は約90万人、うち、日本人は軍関係者や民間人など約15万人。
そのなかに、現地の食品商社に勤める井上寅吉(42)・喜代(39)夫婦と4人の子どもの、井上家の姿もありました。
一般市民の間にも緊急事態の認識が急速に広がっていた。
十一日夜、現地人が居住する旧市街に近い長春大街沿いの日本人街区では、
隣組の非常招集の鐘がけたたましく打ち鳴らされた。
このあたりに住む男性のなかでは唯一、召集を免れた年配の組長が、
集まった人々の前に興奮した面持ちで現れ、早口に語った。
「新京はもう危険だ。
ソ連軍の大部隊があと十二、三時間後には新京に入れる地点にまで迫っている。
これからすぐ共同生活ができる準備をしたうえで、明朝夜明けに非常食を持って広場に集合し、区ごとにまとまって駅へ向かう。各自の所持品はリュックサック一個を限度に許可する。
ただし、新京を死に場所と決めている者はその限りでない。その場合は勝手にせよ」
どこに疎開するのかと問われても、組長には何も答えられなかった。
井上喜代はすぐ自宅に戻ると、夫寅吉にこの話を告げた。
寅吉は「新京はもうダメかもしれないな」とため息をつくと、
向き直って「おまえたちはどうする」と尋ねた。
二人には長女泰子(一六)をはじめとして四人の子どもがいた。
喜代は不安そうに言った。
「でも、私たちは非戦闘員ですもの。まさか殺しはしないでしょう」
「どうかな。内地とは違うからな」
寅吉は低い声でつぶやくと、そのまま黙り込んでしまった。
しかし、思いをめぐらす余裕はなかった。
この機を逃したら、幼い子どもたちを抱えたまま、ソ連軍の部隊に蹂躙(じゅうりん)されることになりかねない。
喜代は泰子と手分けして、かねて用意していたリュックに食糧、薬品、貴重品などを詰め込んだ。それだけでリュックは満杯になり、衣服を入れる余地はなくなってしまった。
夜の寒さを思い、手持ちのシューバをそれぞれのリュックに括りつけた。夏の盛りではあったが、さらに下着を何枚も着込んだうえに、晒(さら)し木綿の布を腹に巻いていくことにした。
混乱が収まったらすぐ新京に戻るつもりでいたから、秋から冬にかけてのことなど、まったく考えていなかった。
少しでも日本に近いところまでという願いも空しく、貨車は途中の朝鮮北部の小さな駅で次々と切り離され、乗っている人々もそこで下ろされていきます。
井上家を含む日本人集団が下ろされたのは、「郭山」(かくさん)という小さな町。
ここに、1094名の日本人からなる「郭山疎開隊」が組織されたのでした。
そして迎えた8月15日。
突然、教会堂と隣り合う礼拝堂の鐘が「カン、カン、カン、カン」と鳴り響いた。
息をひそめて様子をうかがう人々の耳に、朝鮮語の賛美歌が高らかに響き渡った。
息をひそめて様子をうかがう人々の耳に、朝鮮語の賛美歌が高らかに響き渡った。
そうだとすれば、戻るべき満洲国はもはや風前の灯だった。
日本人は八月十五日を境にして敗戦国民に身を落とした。
人々はこの日から、帰る場所を失った「難民」になり果てたのだった。
その後、それ以上の混乱はなかったが、人々は重苦しい雰囲気のなかで一夜を明かした。
* * *
「難民」となった郭山疎開隊を待ち受けていたのは、想像を絶する厳しい生活でした。
当時、新京にいた日本人とは、どんな人たちだったのか。
民間人の避難が遅れたのはなぜだったのか。
興味を持たれたかたは、ぜひ本をお読みいただけると幸いです。
*第2回「骨と皮だけにやせ衰えた子どもたち」は5月29日(金)に掲載予定です。
満州引き揚げ体験を語る
https://youtu.be/2EE5NIk1WN0中国東北部(旧満州)で終戦を迎え、内務官僚の夫と子どもとともに、家族4人で引き揚げてきた経験を持つ水戸市東原3丁目の大久保あい子さん(101)が5日、同市赤塚1丁目の市福祉ボランティア会館で開かれた「茨城の戦争展」で、自らの体験を語った。
井上卓弥 骨と皮だけにやせ衰えた子どもたち<日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉第2回>
- 幻冬舎plus http://www.gentosha.jp/articles/-/3689今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、
敗戦によって「難民」となり、
中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。
その日本人難民をテーマにしたノンフィクション
『満洲難民~三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。
ほとんどが、子どもと女性、そして高齢者でした。
働き盛りの男性の多くは、兵隊として出征していたからです。
井上家も、主(あるじ)の寅吉に8月9日に召集令状が届いて出征しなければならなくなったので、喜代と4人の子どもたちだけで、避難してきたのでした。
急ごしらえで作ったバラックは、狭く昼でも薄暗く、厳しい冬を越すには、あまりに貧弱でした。
子どもや高齢者、母親たちが次々と病に倒れていきます――。
* * *
病室には身動きできない五人の重病人が収容されていた。
胸膜に炎症が起きて膿(うみ)がたまる「膿胸」で寝たきりとなった女性の向こうには、
やせ衰えた母親が赤ん坊を横に寝かせて臥せっていた。
藁ぶとんが子どもの汚物で真っ黒に汚れている。
薄い掛け物一枚で横たわり、苦しそうにうめく母子の姿は痛ましく、生き地獄のようなありさまだった。
枕元には洗濯物が山のようにたまっていた。
「昨日の当番の人が、川が凍っていて洗濯できないから天気の良い日に洗ってもらえ、と言ってやってくれなかったの。もう子どものお尻に当ててやるものがないのよ」
母親は咳き込みながら切なそうに言った。
喜代は洗濯物を集めて洗面器に入れ、小脇に抱えて川に下りていった。
石を投げつけて氷を割り、血管も凍りつくような冷たい水で洗いはじめたが、洗濯物はほどなくカチカチに凍ってしまう。ここまでして洗う意味があるのかと思うほどだった。
凍りついたタオルやシーツを抱えて戻り、炊事場で分けてもらった湯ですすぎ直して広げるのだが、すぐにまた凍りついて硬い板のようになってしまう。
これが朝鮮北部の真冬だった。
1945年秋から翌46年春にかけての食料品価格の高騰と、人々が持ち出してきた、なけなしの日満通貨の暴落により、疎開当初から食料は不足していました。
バラックの建設費や薪(まき)を買う費用もかさみ、食糧調達はますます困難をきわめます。
朝夕の食事はとうもろこしの雑炊だけになっていた。
幼児食は、わずかの米のおかゆにとうもろこしを挽いた粉を入れて量を増やした。
炊事当番の母親は二人一組で一日中、古くて硬いとうもろこしを石臼でゴロゴロと挽き続けねばならなかった。
母乳が出る母親はもうだれもいなかった。
離乳食にはまだ早い生後二、三カ月の乳児にもおかゆが与えられた。
十二月までに誕生した二四人には流産や死産が多く、半数以上が数カ月と経たないうちに息を引き取った。
ほとんどの女性が月ごとの生理もなくしていた。
五、六歳になった子どもたちは空腹を訴えて泣きわめき、母親に嚙みついたり、蹴りつけたりしてくる。
母親たちにもヒステリー症状が蔓延(まんえん)した。
母親たちにもヒステリー症状が蔓延(まんえん)した。
子どもたちはやせこけて目ばかり大きくなり、膝頭が大きくごつごつとしてきた。
小学校に上がる年齢の子どもでも、遊びに出ることもなく黙って座り込み、大小便をたれ流してキョトンとしている姿が目についた。
栄養失調の子どもは骨と皮だけにやせ衰えることもあるし、顔や身体に浮腫が出て逆にむくんでしまうこともあった。
たとえ食べ物を目の前に出されたとしても、そういう状態に陥ってしまった子どもたちには、物を食べて消化する力さえ残されていなかった。
年が明けると、日誌には「死亡」の文字が増えていきます。
毎日のように死者が出た。
扇とともに、満洲国経済部官吏の武田光雄(三二)が二人がかりで塚穴を掘り進めてきたが、厳寒期に入ると共同墓地の地面は完全に凍結し、スコップではまったく歯が立たなかった。
扇とともに、満洲国経済部官吏の武田光雄(三二)が二人がかりで塚穴を掘り進めてきたが、厳寒期に入ると共同墓地の地面は完全に凍結し、スコップではまったく歯が立たなかった。
冬に備えて用意していた塚穴は、相次ぐ死者の発生ですぐにふさがってしまい、新しく穴を掘ろうにも、もはや人力ではどうしようもない。
スコップで凍土をできるかぎり削り取り、その上に遺骸を横たえるのが精一杯だった。
鶴嘴(つるはし)でもあれば新しい穴を掘れたかもしれない。
しかし、本格的な工具の持ち合わせはなかったし、共同墓地の一角でそんなものを使用するわけにはいかなかった。
スコップで何とか掘り進めようとしていると、凍った土のなかから以前に埋葬した遺体の一部が出てくることがあった。
そんな時、扇は作業を止めて「ごめんなさい」と謝り、もう一度手を合わせて念仏を唱えるのだった。
そんな時、扇は作業を止めて「ごめんなさい」と謝り、もう一度手を合わせて念仏を唱えるのだった。
遺族や付き添いの人々は肉親のなきがらにむしろをかけ、扇や武田が削り取った冷たい土をその上にかけて埋葬に代えるようになった。
共同墓地の斜面には、こうして周囲の地面から盛り上がった「土まんじゅう」と呼ばれる仮葬の塚が見渡すかぎり並んでいった。
すっぽりと雪をかぶった土まんじゅうの群れは、ひどく寒々としていた。
* * *
「このままここにいても、ただ死を待つだけだ。なんとしても日本へ帰りたい」
――疎開隊の人々はついに郭山からの脱出を決意しますが、そこにはさらなる試練が待ち受けていました。
本には、「疎開日誌」の実物の写真も掲載されています。
興味を持たれたかたは、ぜひお読みいただけると幸いです。
*第3回「38度線を目指し、決死の脱出行」は6月2日(火)に掲載予定です
38度線を目指し、決死の脱出行 第3回<日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉第3回>
(幻冬舎plus) - Yahoo!ニュース http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150602-00003691-gentosha-ent今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、
中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。
その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民~三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。
飢えや寒さ、伝染病の蔓延によって、朝鮮北部・郭山(かくさん)疎開隊では毎日のように子どもや母親が死んでいきました。
本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。
飢えや寒さ、伝染病の蔓延によって、朝鮮北部・郭山(かくさん)疎開隊では毎日のように子どもや母親が死んでいきました。
何よりも日本政府の態度がきわめて冷淡だった。
「居留民の現地定着方針」の暗号電文をまとめ、
満洲の在新京大使館や領事館をはじめ、中国や東南アジアの在外公館にあてて打電していた。
その理由として「本土の空襲による食糧や住宅の不足」「船舶数や港湾の不足」などが挙げられた。
端的に言うなら、敗戦を目前にした日本政府はまず、
外地にいる民間人をあっさりと見捨てたのだった。
満洲からの脱出の際、38度線を越えられたかどうかで、日本人難民の運命は大きく分かれることになったのです。
六月に入ったら、三つの班を一日おきに出発させることが申し合わせられたものの、懸案事項はいくつも残されていた。
しかし、人目につかないように山道や間道をバラバラに移動するとなると話は違ってくる。
決行の日取りはなお流動的だったが、若い女性たちは髪を切って男装すべきかどうかで頭を悩ませた。前年の秋から初冬にかけて、乞食同然の姿で三々五々、街道を歩いて南下していった坊主頭の女性たちの姿が目に焼き付いていた。
その先の行程に備えるため、新幕周辺の事情にも明るい居留民二人を「先行隊」として派遣し、移動に使うトラックや牛車の手配を済ませたうえで待機してもらうことにした。
新幕から開城に向かって南下する途中の金川までは四〇キロほどある。
新幕から開城に向かって南下する途中の金川までは四〇キロほどある。
ここまでトラックで速やかに移動することができたら、そこから先は体調不良者や老人を牛車に乗せ、いよいよ山間部に分け入る予定だった。
とにかく人目につく街道はなるべく避けながら、山あいの間道をひたすら歩かねばならない。
とにかく人目につく街道はなるべく避けながら、山あいの間道をひたすら歩かねばならない。
開城の米軍キャンプにたどりつくことができれば、難民として保護してもらえるはずだが、
朝鮮半島を横切る三八度線を具体的にどの地点で越えるのかも含め、肝腎のところは成り行きまかせだった。
越境の最終段階では、まったくの手さぐり状態になることも十分に予想された。
6月10日未明に第1班が出発、11日に第2班、そして12日早朝に第3班が出発します。
6月10日未明に第1班が出発、11日に第2班、そして12日早朝に第3班が出発します。
新幕までは計画通り列車で移動できたものの、その後、手配していたはずのトラックには乗れず、道案内を自称する朝鮮人の集団からたびたび案内料をむしり取られ、さらに道中、消耗しきった4歳の男の子が命を落とします。そして出発から6日目を迎え……。
扇や都甲らの率いる二百数十人の第三班は、いくつかの街道が交差する漏川という集落にさしかかっていた。海州(かいしゅう)へと向かう道筋をしばらくたどったのち、担架に病人を乗せて腰までつかる川を苦労して渡り終えた。通りすがりの朝鮮人が声をかけてきた。
「敗戦国に帰っても何もいいことなどないですよ。とくに子どもたちはかわいそうだ。
ここで立派に育ててあげるから置いていきなさい」
応じる者はいなかった。
全員に行き渡るだけの握り飯を買う金もないため、本部員が持参した炒り豆や大豆が食事代わりに配られた。幼い弟を亡くしたばかりの荒木家のきょうだいは、再び大豆をかじりながら歩き続けた。麦畑を横切り、川べりを過ぎ、切り通しの細い山道を抜けた。
応じる者はいなかった。
全員に行き渡るだけの握り飯を買う金もないため、本部員が持参した炒り豆や大豆が食事代わりに配られた。幼い弟を亡くしたばかりの荒木家のきょうだいは、再び大豆をかじりながら歩き続けた。麦畑を横切り、川べりを過ぎ、切り通しの細い山道を抜けた。
どこをどう歩いているのか、ほかの班やはぐれた仲間がどこにいるのか、まったくわからなかった。
ようやく晴れ渡った十七日の明け方、集落に下りる前に山中で長い休息をとった。
ようやく晴れ渡った十七日の明け方、集落に下りる前に山中で長い休息をとった。
歩きはじめてから三日目に入り、人々の地下足袋はすり切れ、ズックの底もパックリと口を開けて足指がのぞいていた。新幕からもう五〇キロ近く歩いてきたはずだった。
「そろそろ三八度線にさしかかってもいいころじゃないのか」
雨や泥で真っ黒に汚れた人々は、みなすがるような思いだった。
その様子を横目で見ていた案内人が「今夜、三八度線を突破できますよ」と言った。
夜が更けると出発が宣言された。星空の下、うねうねと続く田んぼのあぜ道をたどり、暗い山道を越えると、眼前に川が見えてきた。十八日の午前一時を回っていた。両岸に河川敷が白く広がっている。案内人が振り返って言った。
「この川までくれば大丈夫。もう三八度線を越えたから、案内料を支払ってください」
三八度線には川が流れている、と人づてに聞いていた者は多かった。
夜が更けると出発が宣言された。星空の下、うねうねと続く田んぼのあぜ道をたどり、暗い山道を越えると、眼前に川が見えてきた。十八日の午前一時を回っていた。両岸に河川敷が白く広がっている。案内人が振り返って言った。
「この川までくれば大丈夫。もう三八度線を越えたから、案内料を支払ってください」
三八度線には川が流れている、と人づてに聞いていた者は多かった。
しかし、このあたりには黄海へと流れ下る禮成江(れいせいこう)の本流から枝分かれした大小の河川が、朝鮮半島を東西に走る三八度線とからみ合いながら、それこそ無数に流れている。
「ここはまだ北鮮じゃないのか。これは何という川なのだ」
尋ねても返答はなかった。半ばあきらめがちに金を集めて支払うと、案内人は前方の山を指して「もう一つ山を越えれば南鮮の集落がありますよ」と言い残し、足早に去っていった。
腑に落ちない思いで山を登ると、案の定、山賊の集団が現れた。
「ここはまだ北鮮じゃないのか。これは何という川なのだ」
尋ねても返答はなかった。半ばあきらめがちに金を集めて支払うと、案内人は前方の山を指して「もう一つ山を越えれば南鮮の集落がありますよ」と言い残し、足早に去っていった。
腑に落ちない思いで山を登ると、案の定、山賊の集団が現れた。
疲れきった人々にはもう抵抗する気力も残されていなかった。
ほとんど所持品のない難民の代わりに、居留民の一団が被害にあった。
子どもたちは泣くことさえ忘れ、観念したような表情で強奪の様子をじっと見つめていた。
三八度線のすぐ北側の山域は、山賊が越境者から身ぐるみを剥ぐための最後の無法地帯と化していた。
ぼんやりと明るい方角に向かって歩き続け、警備兵の詰所らしい小屋の横を過ぎると、前方に天地を区切るように果てしなく続く一直線の石垣が見えてきた。三八度線直下の銀川(ぎんせん)面はもうすぐそこだった。
ぼんやりと明るい方角に向かって歩き続け、警備兵の詰所らしい小屋の横を過ぎると、前方に天地を区切るように果てしなく続く一直線の石垣が見えてきた。三八度線直下の銀川(ぎんせん)面はもうすぐそこだった。
中心集落の白川(はくせん)には京義線に接続する支線の駅があり、列車も運行されているはずだ。
すでに日は高く、本来は物陰で休息をとる時間帯だったが、重い足を引きずるようにして歩き続けた。保安隊の警備員が現れると、予想に反して白川までの道のりを教えてくれた。
どうやら山賊が支配する無法地帯を過ぎたのは間違いなさそうだった。
もう丸一日の間、休まずに歩き続けていた。長い宵がようやく更けた午後八時ごろ街道に出た。長い列をつくってなおも歩いた。三八度線の検問所に到達したのは、日付が変わって十九日の午前三時前になっていた。
もう丸一日の間、休まずに歩き続けていた。長い宵がようやく更けた午後八時ごろ街道に出た。長い列をつくってなおも歩いた。三八度線の検問所に到達したのは、日付が変わって十九日の午前三時前になっていた。
日本人難民と知ると、徹夜の任務についていた朝鮮人の警備隊責任者がこう言ってゲートを開けてくれた。
「ソ連兵は今、みな寝ている。かまわないから早く行け」
扇は拝むようにしてその場を通り過ぎた。
二〇〇人を超える日本人難民の群れは、みな小走りに三八度線という呪縛を突っ切った。
郭山の仮宿舎を発ってちょうど一週間が経過していた。
道はさらに続いていたが、もう何も考える必要はなかった。
道はさらに続いていたが、もう何も考える必要はなかった。
しばらく歩き続けると、あたりはうっすらと明るくなり、前方に米軍のゲートの明かりが見えた。
たどりついてみると、まだあちこちで米兵の懐中電灯が揺れていた。
終戦前には朝鮮北部の駅と変わらない普通の小駅だったにちがいない。
しかし、南北分断の最前線となった駅前の雑踏は、なぜか郭山のそれとはまったくちがうものに見えた。いくらか所持金を残していた都甲ら居留民は、駅前で売られていた朝鮮餅を買い求めて一口ずつほおばった。
午後、三八度線の南を並行して走る越境者用の特別列車に乗車できた。
白川から京義線と合流する土城まではわずか三駅、一五キロの行程に過ぎない。
扇ら南下第三班の資金は、この運賃を支払ったところで完全に底をついた。文字どおりぎりぎりの三八度線越えだった。
* * *
第1班はほぼ計画通り開城に到着、第2班も途中で班が分断される危機を乗り越えて到着し、ようやく苦難の脱出行から解放されました。
本では、その後の日本に帰国するまでのエピソードなどが、貴重な写真資料とともに綴られています。興味を持たれたかたはお読みいただけると幸いです。
*第4回「僕を穴のなかに埋めないでね」は6月6日(土)に掲載予定です。
■井上 卓弥
1965年、山形県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。1990年、毎日新聞社入社。外信部、東京社会部、サンデー毎日編集部などを経て、現在、東京学芸部編集委員。
2000年10月から4年間、ローマ特派員を務め、バチカン、パレスチナ紛争などを取材。03年のイラク戦争で米海軍に従軍した。
井上卓弥 「僕を穴のなかに埋めないでね」<日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉>
- 幻冬舎plus http://www.gentosha.jp/articles/-/3694今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、
中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。
その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民~三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。
郭山疎開隊のうち、38度線を越えて日本に帰国した「南下班」は約半数。
残りの半数は南下班の脱出行より前に、「北上班」として旧満洲に戻っています。
(約半数が戻ったところで、長春が中国国内の内戦によって情勢不安定になったことで、北上は中止になります。そこで残った人々が、より危険の大きい南下を決意したのでした)。
1946年2月、寅吉からの手紙が喜代に届けられ、喜代と4人の子どもは、北上して旧満洲に戻る列車に乗り込むことができたのでした。
* * *
翌二十三日の第二陣、一七三人の出発は早暁だった。冷え込んだ夜明け前にもかかわらず、見回しても防寒具を身に付けた人は少なく、ほとんどが着のみ着のままの普段着姿だった。
長女の泰子と長男の昌平がすっかりやせ細った末弟の洋一を代わるがわるおぶって歩いた。喜代は洋子の手を引いて後に続いた。
行友春江と満智子もしたがっていた。
線路に沿った街道まで下ると、仮宿舎の家並みが遠望された。
稜漢山の山頂には航空灯台が朝日を背にして立っている。
その下の斜面には、郭山の地で倒れた母子たちの無数の土まんじゅうが並んでいるはずだった。
敗戦の日の青酸カリ事件で井戸の使用が禁止されてから、この川べりに何度、水を汲みに降りてきたことだろうか。
郭山駅に着いた一行は引率の鉱山司官吏、大里正春らの点呼を受け、午前七時半の列車に乗り込んで出発した。
日が高く昇るにつれて山野は次第に陰翳(いんえい)を失い、車窓にはまだ浅い春の情景が広がった。
半年以上も足止めされ、厳しい越冬を余儀なくされた郭山の町は、最初のトンネルに入ると列車の背後に消えていった。
気がつけば、あっけないほどの短い時間だった。
こんなにわずかな距離を移動するために、どうしてあれほど苦しい日々を重ねて待ち続けねばならなかったのか、とても理解できないほどだった。
昌平は車窓から見下ろす大河の流れに目を奪われていた。
進行方向右手の上流から橋の下へ、波立つ激流が白い渦を巻きながら滔々(とうとう)と流れ込んでいる。遠く中朝国境の山々を源とする青黒い雪解け水のなかには、氷塊がいくつも浮かんでいた。
長春で再会を果たした井上家。
かつて寅吉の下で働いていた中国人部下の世話で仕事を始め、新たな住まいも見つけます。
しかし、郭山での厳しい生活は、家族のなかで最も幼い洋一の体を、深く蝕んでいました。
井上家の暮らしはこうして一応安定したが、末子洋一の容態は好転しなかった。
日本人医師による診療も含めてできるかぎりの処置を施したものの、おもわしい効果は表れなかった。
寅吉はそのたび、請われるままに声を湿らせながら歌い聞かせた。
満洲を舞台にした真下飛泉作詞、三善和気作曲の著名な軍歌は、冒頭にも歌われた「赤い夕陽」を浴びながら、戦友の塚穴を掘るシーンへと続く。
やせ衰えていても意識は混濁していなかった。
旧新京に戻って一カ月にもならない三月二十九日、洋一は「僕を穴のなかに埋めないでね」と言い残して息を引き取った。
その姿は、栄養失調からくる小児結核で倒れていった郭山の子どもたちの最期と変わらなかった。
洋一は郭山の仮宿舎から稜漢山中に入った共同墓地の様子を見たことがあったのだろうか。あるいは、その寒々とした情景を語り合う人々の口調を軍歌の歌詞に重ね合わせて、子どもなりに思い描いたことだったのかもしれない。
凍てついた斜面に並ぶ土まんじゅうの群れが、何よりもつらく寂しいものとして脳裏に刻まれていたのだろう。
臨終の言葉にあったとおり、暗く冷たい土のなかに埋めて異国に残していくことは絶対にできない。通夜を終えると、寅吉と喜代は自分たちの手でなきがらを荼毘(だび)に付すことにした。泰子や昌平らきょうだいも両親にしたがった。
手分けして冬枯れの原っぱで枯れ草を刈り集め、洋一のなきがらを横たえると、枯れ草を積み上げ、その上にわずかの薪を並べて火をつけた。枯れ草は勢いよく燃えさかり、やせこけた洋一のなきがらは、やがて小さな白い骨になってしまった。
家族全員で遺骨を一つずつ拾い上げ、用意してきた白木の小箱に納めると、春先の冷たい風の吹くなかを給水塔が見える家の方角へと急いだ。
* * *
本では、井上家のほか、多くの家族の物語が貴重な証言とともに綴られています。ぜひお読みいただけると幸いです。
*最終回「『日本人難民』という戦後史の闇」は6月10日(水)に掲載予定です。