憲法学者、新たな安保関連法案について国会で痛烈な皮肉、「(戦闘現場以外なら米軍などへの後方支援を拡充する点は)一体化そのもの。Aさんが銀行強盗して、僕が車で送迎すれば、一緒に強盗したことになる」
憲法学者、新たな安保関連法案について国会で痛烈な皮肉、「(”戦闘現場”以外なら米軍などへの後方支援を拡充する点について)一体化そのもの。Aさんが銀行強盗して、僕が車で送迎すれば、一緒に強盗したことになる」
安全保障関連法案に「レッドカード」を突きつけた。
各党推薦の専門家から意見を聴く参考人質疑だった。
しかし、野党議員の質問をきっかけに議論は衆院特別委で
審議中の安保法案をめぐる議論に集中していった。
小林節・慶大名誉教授は、今の安保関連法案の本質について
「国際法上の戦争に参加することになる以上は戦争法だ」と断じ、
平和安全法制と名付けた安倍晋三首相や政府の姿勢を
「平和だ、安全だ、レッテル貼りだ、失礼だと言う方が失礼だ」
と痛烈に批判した。
憲法改正手続きを無視した形で推し進める安倍政権の手法を批判した。
戦前のドイツでナチスの台頭を許した「ワイマール(体制)のことを思う」と言及。
教授らは、新たな安保関連法案が、「戦闘現場」以外なら米軍などへの後方支援を拡充する点についても問題点を指摘した。
小林氏は、戦争への協力を銀行強盗を手伝うことにたとえて、
こう皮肉った。
「一体化そのもの。長谷部先生が銀行強盗して、僕が車で送迎すれば、一緒に強盗したことになる」
安保関連11法案が成立すれば、自衛隊の“戦地派遣″の範囲は地球規模に拡大する。
同時に自衛隊員の「心の闇」も広がるのではないか。
イラクやインド洋に派遣された隊員が異常な頻度で自ら命を絶っている実態も判明したが、
自殺する隊員が増えるほど、確実に儲かりそうな企業もある。
両戦争に派遣された隊員の総数は、延べ約2万2560人。
この異常な実態に、中谷防衛相は「(後方支援の拡大後は)さまざまな措置を講じて、隊員のメンタルヘルスケアの機関を充実させていきたい」と約束したが、防衛省はすでに自殺防止を含めた隊員の「心のケア」に取り組んでいる。
防衛省共済組合は「あなたのさぽーとダイヤル」と称する365日24時間対応の電話相談窓口を設置。
■海自OBと防衛省のもたれ合い
ASKAの覚醒剤事件で、今年1月に1審で有罪判決を受け、現在は控訴中の栩内香澄美被告が逮捕当時、在籍していたことでも知られています」(人材派遣業界関係者)
防衛省共済組合との契約額は年間約5000万円程度。
民間調査会社によると、この間、セーフティネッ社の売上高は約3億円前後で推移しており、
自衛隊員のメンタルケア事業は大きなウエートを占めている。
従業員12人というセーフティネッ社にとって、社長のかつての職場は"上"のつくお得意サマだろう。
セーフティネッ社は自衛隊の幹部OBの再就職の受け皿となってもいる。
受注開始の04年に調達実施本部に勤務経験のある空将補を皮切りに、11年には海上幕僚監部総括副監察官だった海将補を、12年には陸自中央会計隊副隊長だった陸将補を、13年には航空教育隊の空将補を、いずれも部長職で迎え入れているのだ。
海自OBの経営会社が古巣の業務を一手に請け負い、防衛省は幹部の再就職先を確保する。この「もたれ合い」関係が新安保法制で深まるのは必至だ。
戦地派遣で“心の傷”を負う隊員が増えれば、防衛省のメンタルケア事業も増額される。
積み上がった“自殺利権”をセーフティネッ社が手にするのは、ほぼ約束されたようなものではないのか。
安倍政権の中枢には文字通り「死の商人」が、まるで巣くっているかのようにも見えるのだ。
国会議論なしで決定するってどうゆうことよ ~憲法を解釈で変更、集団的自衛権行使
Goodbye! よらしむべし、知らしむべからず 2014/2/21
麻生=「知らないうちにワイマール憲法をなきものに」=ヒトラー独裁者への道
憲法とたたかいのblog 2014/1/31 http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2908306.html◆◆Wiki=マルティン・ニーメラーの詩
=彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』は、ドイツのルター派牧師であり、反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩。ニーメラー自身は原稿のないスピーチの中で成立してきた言い回しで、詩として発表されたものではないとしており、厳密な意味でのオリジナルは存在しない[1]。この言い回しはおそらく1946年頃に生まれたと見られ、1950年代初期にはすでに詩の形で広まっていた。
=彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』は、ドイツのルター派牧師であり、反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩。ニーメラー自身は原稿のないスピーチの中で成立してきた言い回しで、詩として発表されたものではないとしており、厳密な意味でのオリジナルは存在しない[1]。この言い回しはおそらく1946年頃に生まれたと見られ、1950年代初期にはすでに詩の形で広まっていた。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が迫害対象を徐々に拡大していく様に恐怖を感じつつも、「自分には関係ない」と見て見ぬふりをしていたら、己がいざ迫害対象になると、社会には声を上げる人は誰もいなかったというもの。
強いメッセージ性を内包するため、政治への無関心層へ向けた呼びかけとして世界各国で広く引用されてきたが、ニーメラー自身もしばしば言い回しを変えたことや、引用者によって修正・付加されたりしたため、多くの版が存在する。こうした版では次々と迫害されるターゲットグループには、共産主義者、社会主義者(社会民主主義者)、労働組合員、ユダヤ人、障害者、カトリック教会、エホバの証人、都市労働者などが挙げられ、順序も前後する。
ニーメラーは1976年のインタビューで、「共産主義者、労働組合、社会民主党、ユダヤ人」の順序で言及したものが最初であると回答しているが、1946年には「共産主義者、不治の病の患者、ユダヤ人やエホバの証人、ナチスによって占領された国の人々」の順で言及したスピーチがあり、彼の回想は正確ではないと見られている[2]。
ニーメラー財団による詩編集
ニーメラー財団は、1976年のニーメラーに対するインタビューを元として詩を再編成している。ニーメラー自身はこのインタビューでユダヤ人迫害についても言及しているが、財団が作成した詩にはユダヤ人が言及されていない[1]。財団はニーメラーが1933年9月に反ナチ運動を開始し、1937年に強制収容所に収監されていることから、ユダヤ人が収容され始めた時期や、カトリック教会への攻撃が本格化した時期を体感できなかったと見ている。
ニーメラーは1976年のインタビューで、「共産主義者、労働組合、社会民主党、ユダヤ人」の順序で言及したものが最初であると回答しているが、1946年には「共産主義者、不治の病の患者、ユダヤ人やエホバの証人、ナチスによって占領された国の人々」の順で言及したスピーチがあり、彼の回想は正確ではないと見られている[2]。
ニーメラー財団による詩編集
ニーメラー財団は、1976年のニーメラーに対するインタビューを元として詩を再編成している。ニーメラー自身はこのインタビューでユダヤ人迫害についても言及しているが、財団が作成した詩にはユダヤ人が言及されていない[1]。財団はニーメラーが1933年9月に反ナチ運動を開始し、1937年に強制収容所に収監されていることから、ユダヤ人が収容され始めた時期や、カトリック教会への攻撃が本格化した時期を体感できなかったと見ている。
日本語訳
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった