やっぱり平等院の鳳凰堂の中に入りたくて、また宇治に行ってきました。


やっぱり平等院鳳凰堂の中に入りたくて、また宇治に行ってきました。

平等院には9時に着き、二回目の鳳凰堂内部拝観券をゲット出来ました。
(20分毎に50名まで。定員になり次第終了で、丁寧な解説あり)

プリンの極楽往生の姿を感じたくて、そして、自分の時の事も感じたくて、
どうしても拝観したかったので。

そんな思いの方も数名おられたように感じました。


拝観案内 | 世界遺産平等院 京都宇治

京都宇治・平等院鳳凰堂が鮮やかに 2014年4月内部拝観再開 - NAVER まとめ



そして、茶団子を並べてギネスに挑戦、というようなイベントが行われてました。

小雨は降るかと思われる天気の中、小雨も降らず、
記録達成をして、ギネス認定されたようです。

茶団子1.6万個、ギネス認定 平等院宇治上神社結ぶ朝日新聞デジタル





9時少し前、宇治橋から

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鳳凰堂、内部拝観準備中
9:30~16:10 20分毎に50名の定員で内部拝観できるということです。

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鳳凰堂背面から

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私が内部拝観した後、第3回目の内部拝観の様子(10:10~)

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平等院宇治上神社の間にかかっている橋にて。
番号で割り振りをして茶団子を並べているようでした。

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平等院宇治上神社の間にかかっている橋から北の宇治橋面。電車はJRだと思います。

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宇治上神社の上の山から平等院周辺の眺め

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宇治橋より1キロくらい上流

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天ケ瀬の吊橋

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夕方5時頃 団子を並べていたのも撤収されていました。

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団子を並べていた木も撤収されていました。奥には平等院鳳凰堂が少し見えます。

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京阪の宇治駅前の電話ボックス

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浄土教の説明を見るたびに「往生要集」という書の名がでてきます。
日本の仏教にとって、「往生要集」というのは大きな存在なんだろうと思います。

「往生要集」は、観想念仏の重要性を説いています。

観想念仏とは阿弥陀や極楽浄土のありさまをできるだけ観想(思い浮かべる)することだ、
というのを知って、3か月ほど前に四天王寺内にある宝物館で曼荼羅を見たときに、
その説明書きに「極楽往生をイメージするためのものである」と書かれてあったのを
思い出しました。


源信 『往生要集』で浄土教発展の基礎つくるが名利捨て念仏三昧
http://rekishi-club.com/gunzou/gensin.html
  
源信平安時代中期、『往生要集』を書いて、浄土教の発展の基礎をつくった僧として有名だが、天台僧として『一乗要訣』という天台の中心教義「一切衆生皆成仏」の理論の完成者だった。

周知の通り、彼は一条天皇から僧都の位を賜り、「恵心僧都」と尊称された。
だが、彼は信仰心篤い母の教えを忠実に守り、名利の道を捨てて隠棲し、まさしく市井で念仏三昧に生きた高僧だった。
  
源信大和国(現在の奈良県北葛城郡当麻)で生まれた。
父は卜部正親、母は清原氏。幼名は千菊丸。
源信の生没年は942(天慶5)~1017年(寛仁元年)。
 
源信は948年(天暦2年)、7歳のとき父と死別。
950年(天暦4年)、信仰心の篤い母の影響で9歳のとき、荒廃した比叡山を再構築した中興の祖、慈慧大師良源(元三大師)に師事し、顕教密教の奥儀を学んだ。
そして、955年(天暦9年)出家、得度した。

956年(天暦10年)、源信は15歳で『和讃浄土教』を講じ、村上天皇により法華八講の一人に選ばれた。俊英の集まる良源門下で、源信の才能は若年時代から高く評価された。そして、下賜された布帛など褒美の品を故郷の母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて、その品物を送り返した。その諫言に従い、彼は以後、名利の道を捨てたのだ。

源信は985年(寛和元年)、『往生要集』を脱稿。
この往生要集は貴族を中心とした上流階級に限られるが、日本初の一般人向けの仏教解説書だ。この中で彼は阿弥陀のいる極楽への往生の方法を説いたのだ。

そして、最も効果のある「念仏」の方法として勧めているのが、称名(しょうみょう)念仏ではなく、観想(かんそう)念仏という方法だ。

観想念仏は浄土三部経の『観無量寿経』に説かれている方法で、阿弥陀や極楽浄土のありさまをできるだけ観想(思い浮かべる)することによって、念仏を行うというものだ。

現代風に表現すれば、イメージトレーニングだ。
これは貴族の好みと一致した。

観想念仏をするための一番いい方法は、この世に極楽浄土のありさまを再現することだ。
今日、国宝として残っている宇治の平等院鳳凰堂は、観想念仏のために建てられたものだ。

1004年(寛弘元年)、栄耀栄華を誇った藤原道長が病を得て帰依したが、彼は京に浄土の再現ともいうべき寺、法成寺(ほうじょうじ)を建立している。
道長は死に際して、法成寺の本堂に床を敷き、本尊阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという。これほど源信が勧めた観想念仏は貴族たちを虜にしたのだ。

こうした事績が認められて源信権少僧都となった。

しかし、1005年(寛弘2年)、母の諫言を守り名誉を好まず、
わずか1年で権少僧都の位を辞退した。

また比叡山の腐敗体質にも失望して、名刹を離れて、横川の恵心院へ隠棲し、
念仏三昧の求道の道を選んだ。

臨終にあたって、源信阿弥陀如来像の手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら入滅したという。
 
源信の著作は『一乗要決』『因明論疏四相違略蔦釈』『六即義私記』『阿弥陀経略記』など70部以上150巻に及ぶが、代表作として知られるのはやはり、985年に著した、念仏による極楽浄土信仰興隆の起爆剤となった『往生要集』だ。
 
源信の浄土信仰の影響は法然親鸞にも受け継がれている。

源信は、浄土真宗では七高僧の第六祖とされ、「源信和尚」「源信大師」と尊称される。

親鸞は『高僧和讃』において七高僧を挙げており、うち2人は日本人だ。
ちなみに七高僧とは龍樹・世親・曇鸞道綽・善導・源信法然だ。
 
源信を境に、阿弥陀如来来迎図や浄土曼荼羅・仏像彫刻などの仏教芸術の最盛期を迎えることになるのだ。
  
紫式部の『源氏物語』、芥川龍之介の『地獄変』に登場する横川の僧都は、この源信をモデルにしているとされる。
  
このほか、『今昔物語』にはしばしば源信が実名で登場する。

教訓的な内容や、人としての教えを語るにも、多くの人に知られている人物として、源信の信仰・思想などを、分かりやすく彼を介した話として取り上げられているのだろう。
 
(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」