やっぱり平等院の鳳凰堂の中に入りたくて、また宇治に行ってきました。
(20分毎に50名まで。定員になり次第終了で、丁寧な解説あり)
プリンの極楽往生の姿を感じたくて、そして、自分の時の事も感じたくて、
どうしても拝観したかったので。
そんな思いの方も数名おられたように感じました。
そして、茶団子を並べてギネスに挑戦、というようなイベントが行われてました。
小雨は降るかと思われる天気の中、小雨も降らず、
記録達成をして、ギネス認定されたようです。
9時少し前、宇治橋から
鳳凰堂、内部拝観準備中
9:30~16:10 20分毎に50名の定員で内部拝観できるということです。
9:30~16:10 20分毎に50名の定員で内部拝観できるということです。
鳳凰堂背面から
私が内部拝観した後、第3回目の内部拝観の様子(10:10~)
番号で割り振りをして茶団子を並べているようでした。
宇治橋より1キロくらい上流
天ケ瀬の吊橋
夕方5時頃 団子を並べていたのも撤収されていました。
京阪の宇治駅前の電話ボックス
浄土教の説明を見るたびに「往生要集」という書の名がでてきます。
日本の仏教にとって、「往生要集」というのは大きな存在なんだろうと思います。
「往生要集」は、観想念仏の重要性を説いています。
その説明書きに「極楽往生をイメージするためのものである」と書かれてあったのを
思い出しました。
源信 『往生要集』で浄土教発展の基礎つくるが名利捨て念仏三昧
http://rekishi-club.com/gunzou/gensin.htmlだが、彼は信仰心篤い母の教えを忠実に守り、名利の道を捨てて隠棲し、まさしく市井で念仏三昧に生きた高僧だった。
父は卜部正親、母は清原氏。幼名は千菊丸。
源信の生没年は942(天慶5)~1017年(寛仁元年)。
源信は948年(天暦2年)、7歳のとき父と死別。
そして、955年(天暦9年)出家、得度した。
956年(天暦10年)、源信は15歳で『和讃浄土教』を講じ、村上天皇により法華八講の一人に選ばれた。俊英の集まる良源門下で、源信の才能は若年時代から高く評価された。そして、下賜された布帛など褒美の品を故郷の母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて、その品物を送り返した。その諫言に従い、彼は以後、名利の道を捨てたのだ。
源信は985年(寛和元年)、『往生要集』を脱稿。
この往生要集は貴族を中心とした上流階級に限られるが、日本初の一般人向けの仏教解説書だ。この中で彼は阿弥陀のいる極楽への往生の方法を説いたのだ。
そして、最も効果のある「念仏」の方法として勧めているのが、称名(しょうみょう)念仏ではなく、観想(かんそう)念仏という方法だ。
現代風に表現すれば、イメージトレーニングだ。
これは貴族の好みと一致した。
観想念仏をするための一番いい方法は、この世に極楽浄土のありさまを再現することだ。
今日、国宝として残っている宇治の平等院鳳凰堂は、観想念仏のために建てられたものだ。
1004年(寛弘元年)、栄耀栄華を誇った藤原道長が病を得て帰依したが、彼は京に浄土の再現ともいうべき寺、法成寺(ほうじょうじ)を建立している。
しかし、1005年(寛弘2年)、母の諫言を守り名誉を好まず、
わずか1年で権少僧都の位を辞退した。
念仏三昧の求道の道を選んだ。
源信の著作は『一乗要決』『因明論疏四相違略蔦釈』『六即義私記』『阿弥陀経略記』など70部以上150巻に及ぶが、代表作として知られるのはやはり、985年に著した、念仏による極楽浄土信仰興隆の起爆剤となった『往生要集』だ。
このほか、『今昔物語』にはしばしば源信が実名で登場する。
教訓的な内容や、人としての教えを語るにも、多くの人に知られている人物として、源信の信仰・思想などを、分かりやすく彼を介した話として取り上げられているのだろう。